スサノオが高天原に昇るときの山や川や国土のどよめきに驚いたアマテラスは、スサノオが自分の国である高天原を奪いに来たのではないかと思いました。
そして、髪を男性の髪型であるみずらに結い直し、勾玉を緒に連ねた飾り物を身に着け、武装し、雄々しく勇猛に振る舞いながらスサノオを待ち受け、天にやって来た意図を問いただします。
武装してスサノオを迎えるアマテラスの段・本文
(前の記事の続きです。前記事は1.5.3 須佐之男命の昇天(1)です。)
曾毘良邇
曾毘良邇は、そびらに、と読みます。「そびら」(背平)は背中のことです。書紀には「背」(そびら)とあります。
千入之靫
千入之靫は、ちのりのゆぎ、と読みます。「靫」(ゆぎ)とは矢を入れて背負う武具です。書紀には「千箭之靫」とあり、その訓注に「千箭云是知能梨(ちのり)」とあります。「の」(箆)というのは矢(箭とも書く)の棒の部分を指し、倭名抄にも、「箆 和名乃(の) 箭竹名也」とあります。
つまり、「ちのり」は「ちのいり」すなわち「千本の箆が入った」という意味になります。ここでも「千」というのは具体的な数ではなく、「とても多い」の意味になります。
靫は古墳時代を通じて使用されたようですが、奈良時代には廃れ、実用の上では胡(ころく、やなぐい)に取って代わられましたが、儀礼用の壺胡としてその遺制は引き継がれました。材質の関係上、実物は出土しないようですが、それを象ったいくつかの埴輪が出土していて、その姿をしのぶことができます。
比羅邇者
比羅邇者は、ひらには、と読みます。この四字は底本(古事記伝)や延佳本にはありませんが、真福寺本をはじめとする諸本に従って挿入しています。宣長は、「諸本に、附の上に比羅邇者の四字あるは、衍(筆者注:衍字、間違えて混入した文字)なり、故延佳本に此四字無きに依れり」として、延佳本に従ってこの四字を削除したようです。
この四字がない場合は、「背には千本の矢が入る靫を負い、五百本の矢が入る靫を付け」という訳になりますが、宣長はこれを「負は主(むね)と負ふなり、附くは側に添附る意なり」、つまり、千入之靫をメインとして背負い、その傍らに五百入之靫をサブとして添えた、と解しています。一方、記注釈では、「さらに『五百入の靫を附け』るというようなことはありそうもないし、文章としても成り立たない」としてこれを否定し、この四字を挿入しています。
この場面に限りませんが、人間ではなく、神のことなので、「八尺勾玉」にしても「千入之靫」にしても、本当にそれくらい大きなものだったのかもしれず、本当に「五百入之靫」をさらに添えたということなのかもしれませんが、いずれにせよ、もともとこの四字はあったものと考えられることから、ここでは挿入することにしました。
さて、「ひら」は未詳ですが、「そびら」との対照で身体の前、つまり胸・腹のあたりかと思われます。靫は背中または腰に佩びたものとされていることから、ここではわき腹と訳しました。したがって、この四字を挿入した場合は、「背には千本の矢が入る靫を負い、わき腹には五百本の矢が入る靫を付け」となります。
五百入之靫
五百入之靫は、いほのりのゆぎ、と読みます。意味は千入之靫の項で説明したとおりです。
所取佩伊都之竹鞆而
所取佩伊都之竹鞆而は、ここではいつの竹鞆(たかとも)を取り佩(お)ばして、と訓読しました。「佩」は「はかして」とも訓みます。
鞆(とも)とは、弓を持つ方の前腕につけ、矢を放った後に弦が腕に当たるのを防ぐ道具で、鹿や牛や熊などの獣の革で作られていたようです。
また、その際に立つ高い音で敵を威嚇する用途もあったとされます。「竹鞆」(たかとも)の「竹」(たか)は借り字です。書紀では「高鞆」と書かれてあり、「高い音を発する鞆」の意と考えられます。万葉集に「ますらをの 鞆の音すなり もののふの 大臣(おほまへつきみ) 楯立つらしも」(一・七六)とあります。宣長は、この道具の用途を、衝撃を吸収することではなく、高い音を立てることの方が主眼であるとし、「たかとも」の語源を「高音物」(たかおともの)であると考えました。
「いつ」は「厳」で、神威の盛んなさまを表します。
さて、この部分は「いつの竹鞆を取り佩(お)ばして」と訓読しましたが、問題があって、それは頭の「所」の字です。これは漢文においては「〜するところの・・・」という意味になり、普通は「所取佩〜」で「取り佩ばせるところのイツノタカトモ」であって、「イツノタカトモを取り佩ばして」とは訓読できません。かと言って、「取り佩ばせるところのイツノタカトモ」とすると、今度は「而」(〜て、〜して、〜だけれども)につながりません。つまり、
- 取佩伊都之竹鞆而、 「いつの竹鞆を取り佩ばして」
- 所取佩伊都之竹鞆、 「取り佩ばせる(ところの)いつの竹鞆」
- 所取佩伊都之竹鞆而、 「?」
となってしまいます。いずれにせよ、何らかの誤脱があると考えられます。
書紀の同じところでは、「臂著稜威之高鞆」(臂にいつの高鞆を著け)、また天孫降臨の条にも「背負天磐靫、臂著稜威高鞆」とあります。これに従ったのか、延佳本では「所」が「臂」に替えられています。
確かに、「臂(ただむき、前腕のこと)に高鞆を著け」と目的語を明記した方が、ここまでの表現が「左右のみづらに〜みすまるの珠を巻き付け、背に靫を負い、わき腹に靫をつけ、臂に竹鞆をつけ、」となり、文体に統一感が得られます。
しかし、真福寺本をはじめ諸本には「所取〜」とあり、慎重な判断が必要です。ここでは底本を含む諸本を採り、「所」を衍字であるとして訳しています。
弓腹
弓腹は、ゆはら、と読みます。弓の弓幹(ゆがら、弦以外の木や竹の部分)の弦の側をいいます。書紀では「弓」(ゆはず、弦の輪を懸ける部分)とあります。
堅庭
堅庭は、かたには、と読みます。堅い地面のことです。「には」は単なる地面ではなく、神事・狩猟・漁業・農業・戦争など、物事が行われる場所を指します。斎庭(ゆには)、沙庭(さには)、霊畤(まつりのには)などの用例があります。
「場」(ば)と同じ意味で、「には」が「ば」と転じたという説があります。かつては市場を「市庭」(いちば)、戦場を「軍庭」(いくさば)、売り場を「売庭」(うりば)などと言ったようです。
向股
向股は、むかもも、と読みます。両方の股(もも)は向かい合っていることからこう呼ばれました。延喜式の祈年祭祝詞に「手肱(たなひぢ)に水沫(みなわ)畫(か)き垂り、向股(むかもも)に泥(ひぢ)畫き寄せて」とあります。
蹈那豆美
蹈那豆美は、ふみなづみ、と読みます。倭建命(やまとたけるのみこと)の歌に、「あさじのはら こしなづむ」、「うみがゆけば こしなづむ」、万葉集に「夏草を 腰になづみ」(一三・三二九五)、「降る雪を 腰になづみて」(十九・四二三〇)、など多くの例があります。いずれも、篠原や海水や夏草や雪に腰まで埋もれている状態を言っています。ここでは、両腿まで埋もれるくらいに堅い庭の地面を踏み込んだ、という意味になります。書紀にも「堅庭を踏みて股(むかもも)に陥(ふみぬ)き」とあります。
沫雪
沫雪は、あわゆき、と読みます。泡のように脆く柔らかく消えやすい雪のことをいいます。「沫雪か はだれに降ると 見るまでに」(八・一四二〇)、「沫雪の ほどろほどろに」(八・一六三九)など、万葉集に多くの例があります。
似た言葉に「淡雪」(あはゆき)があります。こちらは積もってもすぐに融けて消えてしまう春の雪(ぼたん雪)のことです。古今和歌集に「あはゆきの たまればかてに くだけつつ」(巻十一・戀歌一・五五〇)とあります。万葉集の時代の「沫雪」(あわゆき)が、時代が下って古今集の頃には「淡雪」(あはゆき)と考えられていたようです(大系古今集)。
両者は似ていますが、「淡雪」が春の雪の消えやすさに着目しているのに対して、「沫雪」は必ずしも春の雪とは限らず、倭名抄に「沫雪 阿和由岐(あわゆき) 其弱如水沫」とあるように、水泡のように弱くて脆いところに着目しています。八千矛神の歌の「栲綱の 白き腕 沫雪の 若やる胸を」なども、柔らかい胸、ということを表しています。
(1.5.3 須佐之男命の昇天(3)に続きます。)