万葉仮名とは
古事記や日本書紀や万葉集が書かれた時代(奈良時代初期〜中期、八世紀前半)には、ひらがなやカタカナはまだ存在しませんでした。
代わりに、すでに中国大陸から伝わって定着していた、漢字を使って日本語の音を表すことが行われました。これを万葉仮名といいます。
たとえば、「くらげ」は「久羅下」と表記されます。
ただし、一つの音に一つの漢字だけが対応するのではなく、複数の漢字があてられています。
たとえば、「あ」には「阿」「安」「足」などが、「か」には「加」「迦」「柯」などの字があてられます。
また、つねに一字に一音が対応するわけではなく、「覧」を「らむ」、「犬馬」を「まそ」(犬を追う声「ま」と馬を追う声「そ」から)、「神楽声」を「ささ」(神楽のときの囃し声から)、「山上復有山」を「出づ」(「出」の字は山の上にまた山があることから)、「十六」を「しし」、「八十一」を「くく」、「蜂音」を「ぶ」と読ませたりするような例もあります。
上代特殊仮名遣いの発見
古事記・日本書紀・万葉集に用いられている万葉仮名の漢字は合計973個あり、それらが表す音を調べていくと、ある事実が分かりました(石塚龍麿・橋本進吉博士による)。
たとえば、「き」の音を表すと考えられる漢字には、岐・支・伎・妓・吉・棄・枳・弃・企・祇・紀・記・己・忌・帰・幾・機・基・奇・綺・騎・寄・貴・癸などがありますが、これらの漢字がどうやら二つのグループに分かれるらしいのです。
甲類(岐・支・伎・妓・吉・棄・枳・弃・企・祇)と、乙類(紀・記・己・忌・帰・幾・機・基・奇・綺・騎・寄・貴・癸)の二つです。
これを上代特殊仮名遣いといいます。
甲類「き」を表す漢字は、「君」(きみ)、「沖」(おき)、「清」(きよ)、「常磐」(ときは)、「切る」、「行き」、「吹き」などの語に使われ、それぞれの間で交換可能で、「清」は「吉欲」とも「伎欲」とも書き、「沖」は「於伎」とも「意吉」とも書きます。
乙類「き」の漢字は、「月」(つき)、「城」(き)、「霧」(きり)、「尽き」などの語に使われ、「月」を「都紀」とも「都奇」とも書き、「霧」を「綺利」とも「紀利」とも書きます。
一方、甲類の漢字が乙類の語に用いられたり、乙類の漢字が甲類の語に用いられることは、少なくとも奈良時代初期までの用例においては、ほとんどなかったようです。
そして、さらに調べた結果、どうやら甲類の「き」と、乙類の「き」は、異なる発音であったらしいことが分かりました。
このような区別は「い」段、「え」段、「お」段にあり、上代の日本語には、かつて全部で8種類の母音があったことが判明しました。
すなわち、あ、い(甲)、い(乙)、う、え(甲)、え(乙)、お(甲)、お(乙)の8つです。
あ、う、甲類のい・え・お、については、現代日本語のものとほぼ同じであろうと考えられています。
乙類のい・え・お、この三つが上代特有の母音ということですが、実際にどんな発音だったのか、諸説あって定まらないようです。
開音(口の開きをより大きくする)であるとか、中舌母音(舌の中ほどを高くする)であるとか、ワ行 wi we wo のような発音であるとかの説があるようです。
また、どの行にも8母音あるわけではなく、 乙類のい・え・お、の母音があるのは、 き・ぎ・ひ・び・み (イ段)、 け・げ・へ・べ・め(エ段)、こ・ご・そ・ぞ・と・ど・の・よ・ろ(オ段)音に限られています。
また、古事記に限って、上の19音に「も」(オ段)が加わります。
その結果、上代日本語の音の数は全部で87種類(古事記には88種類)あったことになります。
上代特殊仮名遣いの応用
平安時代には、これら甲類と乙類の仮名の発音表記には区別がなくなり、現在のような5母音に統合されたと考えられています。
逆に言うと、古事記の仮名遣いは、万葉集や日本書紀のそれよりも古い形態(「も」音が統合される以前の姿)を保っていることから、古事記がこれらの書物よりも古い時代の文献であることが間接的に示されます。
また、たとえば「上」(かみ)と「神」(かみ)が同じ語源である(神は上にいただく存在だから)とする説がありましたが、「上」は「賀美」で「美」は甲類のミ、「神」は「加微」で「微」は乙類のミであることを根拠に否定されました。
さらに、竹内文書という、古事記よりも古い時代の文献だと噂されるものがありましたが、そこには母音の甲乙の使い分けが一切なかったため、後世の偽書であることが示されたということもありました。
このように、上代特殊仮名遣いの発見は、上代文学の言葉の区別や時代の推定、真贋の判定などの面で、強力な手がかりをもたらしました。
このサイトにおいても、上代特殊仮名遣いによる判定が何度か出てくることになります。