古事記:日本最古の歴史書
古事記とは、その序文によれば、太安万侶(おおのやすまろ)が和銅五年(712年)に編纂し、元明天皇に献上した歴史書で、現存する日本最古の歴史書とされています。
天武天皇の時、様々な豪族たちが一族の間に伝えてきた「帝紀」(天皇の系譜)と「旧辞」(古い伝承)には、すでに多くの改ざんが加えられ、原型をとどめていなかったそうです。
おそらくそれぞれの豪族たちが、自分たち一族に都合のよいように書き換え続けた結果、虚実入り乱れた、てんでばらばらの天皇の系譜と古伝承が乱立していた状況だったのでしょう。
そのありさまを知った天武天皇は、このままでは帝紀と旧辞の本当の姿が永久に失われてしまう、と大いに危惧しました。
正しい天皇の系譜と古伝承、この二つこそは、天皇の教化に基づく、天皇を中心とした国家組織の根本原理であると天武天皇は考えていたようです。
そこで天皇は、帝紀と旧辞に検討を加え、誤りを正し、これを後世に伝えようとしました。
そして、稗田阿礼(ひえだのあれ)という抜群の記憶力を持つ人物に、帝紀と旧辞を誦習(しょうしゅう)させることにしました。誦習とは書物などを口に出して繰り返し読むことをいいます。
しかし残念ながら、天武天皇の代(673~686)には、帝紀と旧辞の撰録を果たすことはかないませんでした。
時は流れて、元明天皇の代(707~715)になりました。
叔父でもあり義父でもある天武天皇の遺志を継いだ天皇は、太安万侶という官人に、稗田阿礼の誦習した帝紀と旧辞を撰録し、献上するよう命じました。
その勅命を受けて、太安万侶が完成させた書物が、古事記でした。
古事記の特色
序文に従えば、古事記という書物は以上のような来歴を持つとされます。
その由来のとおり、この書物は、天地の始まりに現れた神々とその子孫としての皇室を中心とした系譜、そしてその系譜にまつわる神話・伝承・歌謡の形をとる事績、この二つを柱として構成されています。
そして、皇室が代々日本の国を統治することの正統性を、その神々から受け継ぐ系譜と事績によって示そうとしています。
これは、天武天皇による古事記の編纂事業のそもそもの目的、すなわち、「天皇の教化に基づく、天皇中心の国家組織の根本原理を明らかにすること」に沿ったものと言えます。
そのような動機で編まれた書物なので、いわゆる紀伝体(歴史上の人物の事績を中心に記述する文体)の歴史書という位置づけになります。
しかし、王権の正統性を主張し確認するという、極めて政治的な動機から始まったにも関わらず、それだけでは説明しきれない、独特の抒情性や情感の豊かさを兼ね備えており、古くから文学作品としても非常に高い評価を受けています。
そして今日に至るまで、古事記という書物は時代を超え、様々な形で繰り返し出版され、多くの読者から愛好され、支持を集め続けています。
神話の書
古事記は、歴史書であり文学書であると同時に、神話の書でもあります。
日本に「神道」と呼ばれる独特の宗教があります。
神道は山・野・海・川といった自然や、火や風や雷といった自然現象や、田、家屋、剣、食べ物といった人間の生活に用いられる物など、あらゆるものの中に神を見て、これを崇敬する宗教(多神教)です。
いわゆる「八百万の神」と呼ばれるものです。
この多神教は、縄文時代に自然崇拝という形の萌芽があり、弥生時代、古墳時代を経て次第に形作られていき、大和朝廷の国土統一以降は、各地で信仰されていた神々が大王を中心とした系譜に組み込まれていき、やがて古事記や日本書紀に記されているような形に整えられていったようです。
また神道は、このように、なかば自然発生的に誕生した宗教であるため、仏教やキリスト教のような開祖や経典・聖書のたぐいは存在しません。
その代わりの役目をするのが、古事記や日本書紀や古語拾遺や風土記などの「神典」と呼ばれる一連の書物です。
「神典」とは、神道の神々の系譜や事績が記された古い書物のうち、古い言い伝えをよく残しており(つまり改ざんやねつ造によるものではなく)、信仰の規範とするに足るとみなされるものをいいます。
中でも古事記はその代表格と言ってよい書物で、そこに登場する神々は、現存する多くの神社で祭神として祭られています。
古事記の文体
さて、古事記の文体ですが、全部漢字です。
ただし、純粋な漢文ではなく、万葉仮名と呼ばれる一種の仮名の混じった独特の漢文体で、変体漢文と呼ばれます。
万葉仮名とは、当時の日本語の音を漢字で表記したもので、たとえば「はる」を「波留」と表すようなものです。万葉仮名についてはこちら。
序文の太安万侶によると、すべてを訓(万葉仮名を用いない純粋な漢文)で書いてしまうと、日本語特有の言葉遣いによるニュアンスを表現しきれないし、逆にすべてを音(万葉仮名による表記)で書いてしまうと、冗長になって読みづらくなってしまう、だからこの両者を交えて用いることにした、ということのようです。
古事記の文体の特長を表す具体例
例を挙げましょう。イザナギが黄泉の国から無事帰還した後、「穢國而在祁理」と言います。「穢(きたな)き國に在りけり」と訓読します。
最後の「祁理」は「けり」です。和歌などでよく出てくる助動詞で、「それまで気付かなかったことに、そのとき初めて気が付いたときに漏らす感嘆の意」を表すとされています。
黄泉の国から命からがら逃げおおせた挙句に、初めて旅路を振り返る余裕のできたイザナギは、「穢(けが)れた国にいたものだなあ」という感嘆を思わず漏らした、ということです。
安堵の気持ちと黄泉の国の穢れを厭う気持ちの両方が、実によく表れている台詞です。
もしこの「祁理」がなければ、「穢國而在」となります(通常の漢文では「在穢國」となるでしょう)。この場合、「穢き國に在り」で、「私は穢れた国にいた」と、感情の入らない、説明的な台詞になります。
このように、万葉仮名をいっさい用いないことで、日本語のニュアンスが失われてしまいます。
かと言って、これを万葉仮名だけで書くと、たとえば「伎多奈伎玖邇邇阿理祁理」のようになり、これがもっと長い文章になると、非常に読みづらくなることは容易に想像がつきます。しかも昔は句読点がなく、改行もほとんどありませんでした。
ですので、しばしば正式な漢文の文法を無視した構文になるものの、漢文をベースにしながら日本語の音にこだわった表記を採用したことは、合理的な判断だったと言えます。
またそのことは、当時の日本語にどのような言葉があり、どのように発音されていたのかを後世の私たちが知るための、貴重な実例と手がかりを残す結果となりました(もちろんこれは万葉集や日本書紀などにもあてはまります)。
たとえば上の「祁理」があるおかげで、奈良時代以前の日本語にも「けり」があったことが知れるわけです。
このように古事記は、日本書紀や万葉集などと並んで、上代(飛鳥〜奈良時代)の日本語の姿をよく残す、古代日本語の研究に欠かすことのできない基本的な文献としても、かけがえのない価値を持っています。