唐突ですが・・・自分とは何者か?

自分とは何者か?これは誰しもが多かれ少なかれ持ったことのある問いだと思います。

とくに近年では、多くの人が物質的には豊かな生活を送りながらも、むしろ、そうであるからこそ、日々の生活や人生といったものに何がしかの空疎さ、満たされなさをおぼえてしまう機会が多くなってきているように思えます。

そういう漠然とした感覚は、「自分はどうあるべきか、どう生きていくべきか」という生きることへの切実な問題へと導かれて行き、やがて「自分とは何者か?」という冒頭の問いへとつながって行くのではないかと思います。

自分とは何者か?この問いは古今東西、老若男女を問わず、現代に生きる私たちを含め無数の人々によって繰り返し問われてきた一方で、満足に答えられたためしのない問いでもあるように思えます。

そもそも答えなど存在しなくて、答えを見出すことではなく、見出そうとする過程、努力そのものに意味がある、そんな問いであるとも言われます。

その答えを見つけ出そうとする人々の願いと努力によって生まれたのが、哲学や宗教や芸術や文学といった精神文化なのかもしれません。

私たちにしても、そんな大げさなものではなくても、この問いを自分なりに深く突き詰めていくことで、有形無形に自分の生き方や自分の身の周りの人々によい影響をもたらす、つまりよりよい人生を創り出していくことができるのだと思います。

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一つの手がかりとしての古典

「自分とは何者か」を考えるには、「今ある自分の成り立ち」つまり「どのようにして今ある自分が形作られたのか」を知ることが欠かせないはずです。

自分がこういう性格である、こういう仕事をしている、こういう人と付き合っている、こういうときにこういうことを思う、感じる、考える、行動する…。

そういったことの全体は、自分自身を取り巻く環境や状況と無関係に作り上げられたのではなく、自分の頭脳・肉体と、自分が生まれ育った環境や状況との相互関係によって次第に形作られてきたもののはずです。

つまり、日本で生まれ育ったならば日本の地理、歴史、政治体制、国際関係、経済情勢、科学技術、風土、気候、文化、慣習、伝統、習俗など、自分を取り巻く環境・状況を切り離して自分という人格の成り立ちを追及することは不可能だということです。

その中でもとりわけ重要なのが、歴史、風土、伝統などの、何百年、何千年もの時間の連なりの中で積み重ねられてきた先人たちの遺産で、現在に生きる私たちはみな、彼らが作り上げてきたその土台の上、空気の中で呼吸をしているわけです。

それが何なのかを知らずに、自分の頭の中だけでいくら思惟を巡らせても「自分を知る」ことはできないでしょう。

なぜならば、自分の考え方や感じ方の傾向やクセさえも、その空気の中で知らず知らずのうちに備わってきたはずのものですから。

つまり、旧きを知る、ということです。

旧きを知ることは、今現在この瞬間に生きる自分自身のことを知ることでもあるのだと思います。

たとえば、大げさかもしれませんが、「古い神社の鎮守の杜(もり)の森閑とした清浄な空気に包まれた瞬間に、自分が何者で、自分の中に何が受け継がれ、自分が本当に大切にしているものは何なのかを悟ったような感覚をおぼえた」、というような体験をした人は少なくないのではないでしょうか。

同様な体験が、古事記や万葉集をはじめとする古い書物をひも解くことによっても得られるのです。

筆者がこれらの日本の古典をひも解き始めたのは、思えばそんな理由からでした。

古典を学ぶ、とりわけ自分の国の、自分たちの祖先の遺した古典を学ぼうとする人の中には、同様の理由から興味を持ち始めた人が少なくないと思います。

もちろん、それ以外の理由もいろいろあるのだと思います。

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国際人への必須科目

どんな理由にせよ、古事記や万葉集といった日本の古典に何が書かれているのかに興味を持ったことは素晴らしいことだと思います。

日本人の本来の姿が、もちろん物語的・詩的にデフォルメされた形ではありますが、そこに描かれています。

それを知ることは現在の私たちを知ることであり、ひいては外国の人々のことを知ることでもあります。

海外で、外国人に日本の歴史や伝統のことを聞かれて何も答えられずに困ったという話を聞きます。

そのような経験があった場合、その人は日本のことだけではなく、外国のことも知らない可能性が高いと思われます。

そのような人は、外国の文化に触れてみたところで、比較の対象となる自国の文化を知らないために、その外国のことも正当に評価できないのではないでしょうか。

外国の文化、または自国の文化を、不当に持ち上げすぎたり、逆に貶めすぎたりして、しかもその自覚がない、という状態に陥りがちだと予想されます。

国際人、という言葉がありますが、それは英語が達者であるという意味ではなく、自国の外にたくさんの外国があり、それぞれに言語や歴史や文化があり、それを尊重するべきこと、そして自国もそんなたくさんの国々の一つであり、その言語や歴史や文化は同じように尊重されるべきことを知っている、ということだと思います。

自分の国を知ることは、外国を知ることと同じくらい、国際社会においては欠かせない大事なことです。

そして日本人にとって、日本という国を少しでも知るためのひとつの有力な手がかりとして、古事記を読むということがあると言えます。

自分自身を知ること、自分の生まれ育った国を知ること、ひいては外国やそこで生まれ育った人々のことも知ること(そのための基準を自分の内面にしっかりと作り上げること)、これらのことが自国の神話を学ぶことでもたらされるわけです。

これが古事記を読むことのいわば「実益」です。

とは言え、実益とは関係なく

もちろん、そのような動機に着目してもよいのですが、一方、そのようなこととは無関係に、読み物・詩歌としても非常に興味深い作品ですので、純粋に文芸作品として楽しめばよいのだと思います。

実際、筆者も上に述べたような動機で読み始めたのですが、すぐに作品そのものの魅力に取り憑かれてしまい、普段古事記や万葉集などの古典を読む際に、「自分を知る」という当初の動機を気にかけることは基本的にありません。

いずれにせよ、古事記という書物には、古代の文献らしい不完全かつ素朴な形で、興味深いもの、面白いもの、変なもの、美しいもの、よく分からないもの、醜いもの、可笑しなもの、そして大切なものがいっぱい詰まっています。

このサイトが、これから古事記を読み始めようとする人たちの、その面白さや魅力を発見する一助になれば幸いです。