イザナギがスサノオに、成人しても泣きわめき続けているわけを聞くと、「亡き母のいる根の堅州国へ行きたい」と返ってきました。それを聞いたイザナギは激怒し、スサノオを葦原中国から追放してしまいます。
すべての事業を終えたイザナギは、大御神として近江の多賀の地に鎮座することとなりました。
ここまでで、イザナギとイザナミの二神による国づくりは終わりました。世界や国土の基本的な要素はすべて整いました。しかし、葦原中国はまだ完成していません。アマテラス・スサノオ以下の次の世代へとその事業は受け継がれていきます。
根の堅州国から追放されるスサノオの段・本文
(前の記事の続きです。前記事は1.5.2 須佐之男命の涕泣(1)です。)
伊邪那岐大御神
伊邪那岐大御神は、ここ以降、イザナギは「大御神」「大神」と称されます。三貴子を生み、世界分治の事依さしを終え、為すべき事業すべて成し遂げたところで、それを称えてこの称号で呼ばれるようになったものと考えられます。
僕
僕は、一人称です。ここでは「吾」と同じ「あ」と訓んでいます。「下僕」という言葉からも分かるように、もともとは召使や、身分の低い者を表す言葉でした。
古事記においても、この場面や、アマテラスに対するスサノオ、スサノオに対するアシナヅチ、タケミカヅチに対するオオクニヌシなどが「僕」を使っており、謙譲表現であることが分かります。普通は「やつかれ」「やつこ」などと訓み、その場合は謙譲を強調した表現になりますが、宣長は、「皇朝の古人は直き故に、虚言せねば、貴人の自やつかれなど云が如きことはなし、然るを僕と書るは、漢ぶみに傚(なら)へるなり」として、「僕」を「あ」と訓んでいます。
妣
妣は、はは、と訓みます。亡き母のことです。礼記の曲礼に「生曰父、曰母、曰妻、死曰考、曰妣、曰嬪」(生きているときは父、母、妻といい、死んだときは考、妣、嬪という)とあります。黄泉の国に神避ったイザナミを指しています。
ここで問題になるのは、イザナミは確かにイザナギの妻ではあったけれども、スサノオはイザナギの禊ぎによって成った神なので、イザナミの子と言えるのかどうか、という点です。宣長は、「かの御禊に成坐る神たちは、元を尋ぬれば、みな伊邪那美命の黄泉の穢惡(けがれ)より起れるがゆえに、其時の十四柱の神たちも、猶伊邪那美命を以て御母とするなり」と解釈しています。
記注釈では、大地(地下)は、神話においては常に、穀物を生み育てる母性原理であって、古事記も例外ではない、つまり、「ははの国」とは「母の国」すなわち「母なる大地」のことであって、それは地下世界である黄泉の国・根の堅洲国を指すと同時に、イザナミとスサノオの関係を示す「妣の国」と説話の上で表現されるようになったのではないか、としています。つまり「ははの国」は「母なる大地」と「亡き母のいる世界」を同時に意味するということです。
しかし、いずれにしても、黄泉津大神であるイザナミのいる黄泉の国と根の堅洲国が同じものなのか、という問題がなお残ります。のちにスサノオのいる根の堅洲国からオオナムヂが黄泉比良坂を通って葦原中国へ逃げ帰るというくだりが出てきます。つまり、黄泉の国と葦原中国、根の堅洲国と葦原中国が黄泉比良坂でつながっていることは分かりますが、これは必ずしも黄泉の国=根の堅洲国であることを意味しません。
根之堅洲國
根之堅洲國は、ねのかたすくに、と読みます。「根」とは「下の底」をあらわします。「堅洲」(かたす)とは「片隅」のことだと考えられます。出雲の杵築大社のことを、日本書紀の一書は「天日隅宮」、出雲国風土記の楯縫郡の条では「天日栖宮」と呼んでおり、「隅」は「す」とも言ったことが分かります。
宣長は、「堅洲國は、片隅國の意なり、そは横(筆者注:水平方向)の隅にはあらで、豎(たて)(筆者注:垂直方向)の片隅にて、下つ底の方を云なり」としています。
しかし、たとえ「根」が地底を表す言葉だとしても、「堅洲=片隅」がさらにその下の底であるとまでは必ずしも言えません。根の国は「底根の国」「底の国」とも呼ばれますが、古事記伝の天常立之神の項の説明に従えば、「底」(そこ)とは「退き處」(そきこ、離れさかるきわみ、空間の極限)のことで、地底ではあっても空間の広がりを縦横に持ちうる世界です。実際、オオナムヂの段に見るように、根の堅洲国には、地上世界のように、野原があり、草木があり、蛇やネズミなどの動物もいます。つまり地下世界であっても、横の広がりを持つ地上世界と同じように描かれています。
此國
此國は、イザナギは、「この国に住むな」と言ってスサノオを追放します。この国とはどこでしょうか。スサノオが海原を治めるよう事依さしを受けたことから海原であるとする説と、スサノオは事依さしに従わずに泣いてばかりで、葦原中国にとどまっていたはずなので、葦原中国のことであるとする説があります。
神夜良比邇夜良比賜也
神夜良比邇夜良比賜也は、神やらひにやらひ賜ひき、と読みます。「やらひ」は「遣らふ」で、追いやる、追放する、の意です。「神」は神の行為を表す接頭辞で、「神議(はか)りに議り」「神問はしに問はし」「神掃ひに掃ひ」など多くの用例があります。同じ言葉や表現を繰り返すのは口承文芸の特徴で、これらの表現にもその韻律が反映されていると考えられます。
淡海之多賀
淡海之多賀は、すべての事業を終えたイザナギは、大神として淡海(あふみ、近江)の多賀の地に鎮座することとなりました。延喜式神名帳の近江国犬上郡に「多何(たが)神社二座」とあり、社格は小社です。一方、日本書紀本文には、
伊弉諾尊、神功既畢、霊運當遷。是以、構幽宮於淡路之洲、寂然長隠者矣。
と書かれています。神名帳の淡路国津名郡に「淡路伊佐奈伎神社」とあり、名神大社に指定されています。この神社は日本三大実録の貞観元年(859年)正月廿七日の条に「奉授淡路國無品勲八等伊佐奈岐命一品」とあることからも、古くから別格の大社とされていたことが分かります。
イザナギの御魂が鎮座すると伝わる社が神名帳で小社に指定されることは考えにくく、また淡路伊佐奈伎神社の格式の高さや、淡路島がイザナギ・イザナミの生んだ最初の島であることなどを鑑みると、古事記のここの「淡海」は「淡路」の誤写であろう、とする説も出てきます(記注釈)。
しかし、一方で、宣長は、「此記も本は淡路なりしを、路の字を海に写し誤れるかとも疑ふべけれど、淡路に古へより多賀てふ名聞こえず、近江には今に名高くて、御社も坐ませば、此記は固(もとよ)り淡海なり」としています。実際、近江の多賀は倭名抄の近江国の条に「犬上郡田可(たが)」とあるように、古くからある地名である一方、淡路国の条には「多賀」に当たる郡郷名は見当たりません。
また、道果本・道祥本・春瑜本などの写本(伊勢本と呼ばれます)には「淡路」とありますが、伊勢本は偽書とされる先代旧事本紀の記述に従い「淡路」としたまでであって、それ以外の写本ではもとより「淡海」だった、とする説があります(小野田光雄「古事記・釈日本紀・風土記ノ文献学的研究」)。
結局、このイザナギ大神の鎮座する多賀の地が「淡海」なのか「淡路」なのかを確定することは難しいということになりますが、古事記という文献上は「淡海」であろう、ということになりそうです。
宣長は上に引用した書紀本文に続く文章、「伊弉諾尊、功既至矣。徳亦大矣。於是、登天報命。仍留宅於日之少宮矣」に徴して、「現御身は、終に天上なる日の少宮に留まり坐まして、淡路と多賀とは、其の御霊の鎮り坐す御社なり、然るを、構幽宮云々とあるは、後にかの天上の日の少宮に擬(なずらへ)て、彼の洲(しま)に御社を建たるを、かくは語り傳へるなり」、つまり、イザナギ自身は天に戻って日の少宮に留まり、近江の多賀と淡路の二所にはその御魂が鎮まっている、と考えました。