イザナギの事依さしを受けた後、アマテラスとツクヨミの二神はそれに従い、それぞれの領域を治めていましたが、スサノオだけは、委任された海原を治めようとせずに、成人してあごひげが胸元に届くほどになっても、泣きわめいてばかりいました。

そのエネルギーはすさまじく、青山を枯らし、川や海を干上がらせるほどでした。そして世界は悪神のざわめく声と災いにあふれかえってしまいました。

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泣きわめくスサノオの段・本文

クリックで現代語訳

そして、それぞれの神が、伊邪那岐命いざなぎのみことの委任の仰せのままに治めている中で、須佐之男命すさのおのみことは、委任された国を治めずに、成人して長いあごひげが胸元に届くまで、泣きわめいた。その泣くさまは、青々とした山を枯れ木の山のように泣き枯らし、川や海はことごとく泣き乾してしまった。そして、悪神の声は夏の蠅のように充満し、あらゆる災いがことごとく起こった。そこで、伊邪那岐大御神いざなぎのおおみかみは、須佐之男命に、「なぜあなたは、委任した国を治めずに、泣きわめいているのか」と言うと、須佐之男命は、「私は亡き母の国である、根之堅洲国に参りたいと思って泣いているのです」と答えた。すると伊邪那岐大御神は大そう怒って、「それならば、あなたはこの国に住んではならない」と言って、ただちに須佐之男命を追放した。そして、その伊邪那岐大神は、近江の多賀に鎮座している。

クリックで訓読文

かれおのもおのもさし賜へる命のまにまに知ろしす中に、速須佐之男命はやすさのをのみことさしたまへる国を知らさずて、八拳須やつかひげ心前むなさきに至るまで、いさちき。其の泣きたまふさまは、青山を枯山からやます泣き枯らし、河海はことごとに泣きしき。是を以てあらぶる神のおとなひ、狹蠅さばへ如すみな満ち、よろずの物のわざはひ悉におこりき。故、伊邪那岐大御神いざなぎのおほみかみ、速須佐之男命にりたまはく、「何由なにとかも、みましは事依させる国をらさずて、いさちる」とのりたまへば、答白まをしたまはく、「ははの国、根之堅洲国ねのかたすくにまからむとおもふが故に哭く」とまをしたまひき。ここに伊邪那岐大御神、いた忿怒いからして、「しからば汝、此の国にはな住みそ」と詔りたまひて、すなはかむやらひにやらひ賜ひき。故、其の伊邪那岐大神は、淡海あふみの多賀になもします。

クリックで原漢文

故各隨依賜之命所知看之中、速須佐之男命、不知所命之國而、八拳須至于心前、啼伊佐知伎也。【自伊下四字以音。下效此。】 其泣者、靑山如枯山泣枯、河海者悉泣乾。是以惡神之音、如狹蠅皆滿、萬物之妖悉發。故伊邪那岐大御神詔速須佐之男命、何由以汝不治所事依之國而、哭伊佐知流。爾答白、僕者欲罷妣國根之堅洲國故哭。爾伊邪那岐大御神大忿怒詔、然者汝不可住此國、乃神夜良比邇夜良比賜也。【自夜以下七字以音。】 故其伊邪那岐大神者、坐淡海之多賀也。

底本では、滿を涌の誤りとし「わき」と訓んでいる

クリックで言葉

《言葉》

  • 【隨】まにまに 〜に従って、〜のままに
  • 【八拳須】やつかひげ 「八拳」はいくつも拳を並べたくらいに長い、という意味
  • 【心前】むなさき
  • 【啼伊佐知伎】なきいさちき 「いさちる」は激しく泣くこと
  • 【如枯山】からやまなす 「如す」(なす)は「〜のように」の意
  • 【悪神之音】あらぶるかみのおとなひ 「おとなひ」は動詞「おとなふ」(音を立てる)から
  • 【狭蠅】さばへ 「さ」は田植えの関する言葉に付く、ここでは「田植えの頃の蠅」
  • 【物之妖】もののわざはひ 「物」は妖怪・鬼
  • 【僕】あ 謙譲表現の一人称、通常は「やつかれ」「やつこ」と訓む
  • 【妣】はは 亡き母
  • 【根之堅洲国】ねのかたすくに
  • 【神夜良比邇夜良比】かむやらひにやらひ 「神」は神の行為に付く接頭辞
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は、おのもおのも、と読みます。宣長は、続日本紀の称徳天皇の宣命に「於乃毛於乃毛」(続紀・巻二十六)とあるのに従ってこう訓みましたが、現代と同じように、おのおの、と訓むこともできます。

は、まにまに、と訓みます。〜に従って、〜のままに、という意味です。布斗麻邇(ふとまに、鹿の肩胛骨をあぶってできる裂け目を見て占うもの)の「まに」はこの意味であるという説を、そこで紹介しました。現代では「ままに」が普通ですが、「まにまに」も使われます。

知看

知看は、しろしめす、と訓みます。しらしめす、もあります。「知らす」は「知る」(治める)の尊敬語、「看す」は「見る」の尊敬語ですが、ここでは尊敬を表す補助動詞として使われています。「聞こしめす」「思しめす」などの用例があります。

八拳須

八拳須は、やつかひげ、と読みます。「八拳」(やつか)は「十拳劔」(とつかのつるぎ)と同じ形ですが、ここでは「拳八つ分」という具体的な長さではなく、「いくつもの拳を連ねたくらいに長い」という意味です。「八」は具体的な数ではなく、数が多いことを表す一種の美称です。「八握劔」(景行紀十二年)、「八束穂」(祝詞)、「八掬脛」(越後国風土記逸文)などの用例があります。「須」(ひげ)は「鬚」の原字(もともとの字)です。

心前

心前は、むなさき、と読みます。胸の先という意味です。「八拳須が伸びて胸の先に至るまで」は「大人になるまで」という意味になります。慣用句だったようで、ほかに本牟智和氣(ほむちわけ)王が、

八拳鬚心の前に至るまで眞事(まこと)とはず(垂仁記)

阿遲須枳高日子(あぢすきたかひこ)命が、

御須髪(みひげ)八握に生ふるまで、夜晝(よるひる)哭きまして(出雲国風土記仁多郡条)

などの用例があります。

啼伊佐知伎

啼伊佐知伎は、なきいさちき、と読みます。「いさちる」とは激しく泣くことです。すぐ後で「伊佐知流」(いさちる)とあることから、上一段活用であることが分かります。なお、日本書紀のスサノオが泣く同じ場面では、

勇悍(いさみたけ)くして安忍(いぶり)なること有り。且常に哭き泣(いさ)つるを以て行とす。(本文)

性悪くして、常に哭き恚(ふつく)むことを好む。(第二)

常に啼き泣(いさ)ち恚恨(ふつく)む。(第六)

とあり、スサノオが「性悪で残忍でいつも怒っている」悪神として描かれていますが、古事記にはそのような記述はなく、スサノオは悪神であるとはみなされていません。スサノオの莫大な荒ぶるエネルギーが、結果として災いをもたらしている、ということだけが描写されています。

靑山如枯山泣枯、河海者悉泣乾

靑山如枯山泣枯、河海者悉泣乾は、スサノオが「啼きいさちる」ことで、「草木の生い茂った青い山が枯れ山になり、川や海がことごとく干上がってしまった」ということです。その負のエネルギーのすさまじさが印象的に表現されています。宣長は「泣けば、涙の出る故に、其涙のかたへ吸取られて、山海河の潤澤(うるほひ)は、涸るにやあらむ」としています。

惡神之音

惡神之音は、惡(あら)ぶる神の音なひ、と読みます。惡しき神の音(あしきかみのこゑ)とも読みます。国譲り・天孫降臨の段にあたる日本書紀の一書に、「葦原中國は、磐根・木株・草葉も、猶能く言語(ものい)ふ。夜は火(ほほ)の若(もころ)に喧響(おとな)ひ、晝(ひる)は五月蠅如(さばへな)す沸き騰る」、その訓注に「喧響、此云淤等娜比(おとなひ)」、「五月蠅、此云左魔倍(さばへ)」とあります。

また書紀本文にも「彼の地に、多に螢火の光く神、及び蠅聲(さばへな)す邪しき神有り。また草木咸(ことごと)に能く言語有り」とあり、天孫降臨の段階での葦原中国は、まさにここでスサノオが作り出してしまった状況そのものです。古事記の天孫降臨の段では、葦原中国は「いたくさやぎて有りなり」「道速振る(ちはやぶる)荒振る(あらぶる)國つ神等の多在り」と描かれます。

葦原中国の騒然とした無秩序な様子を表すこれらの描写から、宣長は「惡神」を「惡しき神」ではなく、「惡(あら)ぶる神」とし、「音」を「こゑ」ではなく「おとなひ」としました。「おとなひ」は「おとなふ」(音を立てる)の名詞形です。「悪しき神の音(こえ)」よりも、「あらぶる神の音なひ」の方が、より動的で勢いがあり、よりその騒然とした様子を伝える表現になっています。

如狹蠅皆滿

如狹蠅皆滿は、さばへなすみなみち、と訓読します。「狹蠅」(さばへ)の「さ」は「早苗」「五月」「早乙女」の「さ」で、農業を表します。「さばへ」とは「田植えの頃の蠅」つまり「五月蠅」で、「うるさい」ことを表します。宣長は、

狹蠅は、書紀の字の如く、五月ごろの蠅なり、然るを佐都伎(さつき)といはで、佐(さ)とのみ云ふは、田植る農業(わざ)を、凡て佐と云ふ、その苗を佐苗、植る女を佐少女(さをとめ)、植始むるを佐開(さびらき)、植終るを佐登(さのぼる)など云が如し、さて又其の業(わざ)する月を佐月(さつき)と云ひ、其の頃の雨を佐亂(さみだれ)と云なり、かかれば、狹蠅も、田植るころの蠅と云意の称なり、其の頃殊に此虫は多かる故に、名に負えるなり。

と説明してます。

「如す」(なす)は天地初發の段でも出てきた「くらげなすただよへる」の「なす」で、「〜のように」という意味です。

宣長は「滿」は「涌」(わく)の誤りであろうとし、これを「滿(わ)き」と訓みました。その根拠として、出雲國造神賀詞の

晝(ひる)は五月蠅如すみな沸きて、夜は火如す光神在り。

を挙げています。一方、記注釈では、推古紀三十五年の条の「夏五月、有蠅聚集。其凝累十丈之。浮虚以越信濃坂。鳴音如雷」、斉明紀六年の条の「蠅群向西、飛踰巨坂。大十圍許。高至蒼天」の記述から、「『鳴る音雷の如し』とあるように、それはうるさいというより凄まじい」、だからこそ「サバヘナス皆満ち」と言ったのだ、とします。

つまり、普通に使う「蠅のように涌く」では不十分で、「五月蠅のように、辺り一面に満ちる」とした方が、実際の田植えの時期の蠅の様子を表現するのにぴったりだ、ということです。確かに、ここでは主語が「惡ぶる神の音なひ」ですので、「音なひが涌く」よりも「音なひが満ちる」の方が表現としても自然で、かつ迫力があります。

萬物之妖

萬物之妖は、よろづのもののわざはひ、と読みます。ここでの「物」というのは、妖怪や鬼といった、超自然的な霊的存在を指します。「物の怪」(もののけ)の「物」です。

「妖」(わざはひ)は「わざ」(神霊や妖鬼の意図、行い、しわざ)+「はひ」(這ひ、広がっていくさま)の意味と考えられており、「物の妖」は、「妖鬼や神霊のしわざによる悪いこと、災禍」という意味になります。単に「萬の妖」とするよりも、葦原中国にあふれつつある「モノ」によるしわざであることが強調されています。

1.5.2 須佐之男命の涕泣(2) に続きます。)