そこで、速須佐之男命は、すぐにその少女を神聖な爪櫛に変えてみずらに挿し、足名椎・手名椎神に、「あなたたちは、何度も繰り返して醸した強い酒を造り、また垣を作って廻らし、その垣に八つの門を作り、門ごとに八つの桟敷を作り、其の桟敷ごとに酒槽を置いて、槽ごとにその強い酒を満たして待ってなさい」と言った。
そこで足名椎・手名椎は言われたとおり、そのように準備して待っている時に、かの八俣のおろちが、本当に言ったとおりにやって来た。おろちはすぐに、酒槽ごとにそれぞれの頭を垂らし入れて、その酒を飲んだ。そして酒を飲んで酔い、その場で伏せて寝てしまった。
そこで速須佐之男命は、その佩いていた十拳剣を抜いて、そのおろちをずたずたに斬り裂くと、肥の河は血の川となって流れた。そして、そのおろちの中ほどの尾を切る時に、御刀の刃が欠けた。そこで不審に思って、御刀の先で刺し裂いて見てみると、都牟刈の大刀があった。そこで、この大刀を取って、不思議な物だと思い、天照大御神に申し上げてこれを献上した。これは草薙の大刀である。
(前の記事の続きです。前記事は1.7.4 草薙の剣(1)です。)
酒船
酒船は、船は槽(ふね)で、酒を入れる、または造るための容器のことです。前出の大隅国風土記逸文の酒槽も同じです。
延喜式の民部省下の交易雑器の記載によると、酒槽は、大きいもので長さ六〜九尺、広さ二尺三寸〜七寸、深さ八寸となっています。律令制における尺は約29.6センチ、寸は約2.96センチとされているので、非常に大きなものであったことが分かります。
飮醉留伏寢
飮醉留伏寢は、飲んで酔って留まって伏せて寝た、と動詞が五つ連なります。
「留」の部分は底本では「死由」となっていますが、意味をなしません。真福寺本などの諸本には「■(死の下に田)」とあり、これは「留」の異字体で、「死由」はその誤写だと考えられます。
十拳劔
十拳劔は、とつかつるぎ、と読みます。拳十個分の長さの剣という意味でした。似た表現に八拳須(やつかひげ)がありました。
其の御佩(はか)せる十拳(掬)剣を抜きて、云々
という表現は、一種の定型になっていたようで、イザナギがカグツチの首を斬る場面や、黄泉の国から逃げ帰る場面や、国譲りの段で阿遅志貴高日子根(あぢしきたかひこね)神が怒って喪屋を切り伏せる場面などに出てきます。
この剣は、古語拾遺では「天羽々斬」(あめのははきり)と呼ばれ、「石上神宮に在り」とされ、紀一書(第二)では「蛇の麁正」(をろちのあらまさ)と呼ばれ、「石上(いそのかみ)に在す」とされ、一書(第三)では「韓鋤の剣」(からさひのつるぎ)と呼ばれ、「其の素戔嗚尊の、蛇を断(き)りたまへる剣は、今吉備の神部の許に在り」とされています。
「石上神宮」「石上」とは大和国山辺郡の石上坐布都御魂神社(名神大社)、吉備の神部とは、備前国赤坂郡の石上布都之魂神社(いずれも延喜式神名帳)のことと考えられます。
つまり、スサノオがヤマタノオロチを退治するのに用いたこの十拳剣が、大和の石上坐布都御魂神社もしくは吉備の石上布都之魂神社に奉安されている、ということです。
石上神宮には刀剣をはじめ多くの神宝が集められていたことで、つとに有名でした。それを管掌したのは物部氏でした。
神武東征のとき、高倉下(たかくらじ)のもとに高天原より降された刀が石上神宮にあるとあり(神武記)、また崇神紀六十年条に矢田部造の遠祖武諸隅を遣わして出雲大神の宮の神宝を献上させたという記事があります。新撰姓氏録によると、「矢田部造。伊香我色乎命之後也」(左京神別)で、矢田部造は物部氏と同祖であることが分かります。
また、垂仁紀二十六年条に、物部十千根大連に勅して出雲の神宝を検校させ、これを掌らせた、同八十七年条に、この物部十千根が神宝を授かり、以後物部連らが石上の神宝を治めるようになった、同三十九年条に、五十瓊敷命が作らせた剣一千口が石上神宮に蔵(おさ)められたなど、そのことを示す多くの記事が見えます。
なお、宣長は、これらの記事から、
須佐之男命の御剣、出雲の神宮に蔵れりしを、右の崇神垂仁の御時など、餘(ほか)の神宝と共に、京に召し上げたまひて、其時よりや石上には納められたりけむ。
と推測しています。
切散
切散は、きりはふる、と読みます。「はふる」は斬り散らす、ばらばらにする、という意味です。
他に「屠」の字があてられ、「ほふる」とも言います。出雲国風土記の意宇郡条の名高い国引き詞章に、「はたすすき穂振(ほふ)り別けて」とある「穂振り」も同じ意味です。
この「はふる」「ほふる」には、殺す、という意味も含まれ、「葬る」(はぶる)と同語源と考えられます。
肥河變血而流
肥河變血而流は、肥の河血に変(な)りて流れき、と訓読します。變は変の異字体です。
仁徳紀六十七年条に、笠臣祖県守が備中国の川嶋河の川俣にいて人を苦しめていた大(みつち、大蛇のこと)とその族(やから)を剣で斬ると、「河の水血に変(かへ)りぬ」という同様の記事があります。
中尾
中尾は、八つある尾のうちの中ほどの尾、という意味です。
御刀
御刀は、みはかし、と読みます。イザナギがカグツチを斬る段に出てきました。刀を「佩く」の尊敬語「佩かす」を名詞化したもので、その刀を指します。同様の例は、弓の「御執」(みとらし)、衣服の「御衣」(みけし、着るの尊敬語「けす」)などがありました。
都牟刈之大刀
都牟刈之大刀は、つむがりのたち、と読みます。ヤマタノオロチの中ほどの尾を斬ったところ、十拳剣の刃が欠けたので、不思議に思って見てみると、この大刀がありました。宣長によると、
都牟賀理(つむがり)とは、物を利(と)く截断貌(きりたつさま)を云ふ言にて、今の世の語に、豆加理(づかり)又須加理(すっかり)など云即是なり。
つまり「つむがり」は布都御魂の「ふつ」などと同じ、剣で物を斬る擬音語に由来するとしています。
似た構成の語に須加流横刀(すがるたち)(皇太神宮儀式帳、延喜式)があります。
一方、アヂスキタカヒコネの御刀である大葉刈(おほはがり)(神代紀下)、大量(おほはかり)(神代記)の「かり」に見えるように、「かり」は大刀の名に用いられ、物を切る意(カルとキルは同源)と考えられます(時代別国語大辞典)。
このことから、記注釈は、「つむがり」のうち「つむ」が擬音語で、「がり」は「刈る」の意ではないかとしています。
宣長は剣を表す「つるぎ」もこの「つむがり」と同源としていますが、実際には「つるぎ」の語源は「吊り佩き」であると考えられます。「つりはき→つらき→つるき」といった具合です。ア段→ウ段の交替は、「つら」(葛)が「つる」に、「わか(若)子」が「わく子」になる例などがあります。
応神記の吉野の国主(くず)等が大雀命(仁徳天皇)の御刀を見て歌った歌謡に、
品陀(ほむだ)の 日の御子 大雀 大雀 佩かせる太刀 本つるき 末振ゆ 冬木の 素幹(すから)が下木の さやさや
とあり、動詞「振ゆ」と対になっています。身体の大きな仁徳天皇が、太刀をその本の方で腰に吊り佩き、その太刀の鞘の先がぶらぶら揺れている様子を歌っています。
また、「つるき」に関しては、景行記の倭建命(やまとたけるのみこと)の歌、
嬢子(をとめ)の 床の辺に 我が置きし つるきの太刀 その太刀はや
も注目されます。これに対応する、「所帯(みは)かせる十拳剣」(神代紀)、「御執(みと)らしの梓の弓」(万・一・三)、「懸け佩きの 小剣取り佩き」(万・九・一八〇九)、「我が夫子の 取り佩ける太刀」(清寧記)など同型の表現が多く見えることからも、「つるき」は「つりはき」の意とする説は有力です。
なお、倭名抄には「劔 似刀而兩刃曰劔」、「刀 似劔而一刃曰刀」とあり、両刃のものを剣、片刃のものを刀と区別していますが、記紀の実際の用例を見ると、ツルギとタチはほとんど区別がない(ツルギは「吊り佩き」、タチは「断ち」なので、もともと刃の形状による区別ではない)ことから、倭名抄の区別はやや時代が下ってからのものと考えられます。
剣は古くは両刃で、主に突いて使っていたのが、片刃のものが現れ、断ち切るのに都合のよいように切っ先の形も変化していったようです。
白上於天照大御神也
白上於天照大御神也は、白(まを)し上ぐ、とは、アマテラスに大刀を手に入れたいきさつを奏して献上することをいいます。書紀本文には、
素戔嗚尊の曰はく、「是神(あや)しき剣なり。吾何ぞ敢へて私に安(お)けらむや」とのたまひて、天神に上獻(たてまつりあ)ぐ。
とあります。
スサノオは高天原を追放されたとは言え、あくまでもアマテラスを頂点とする高天原の天神たちの下にある存在であることが、前段のスサノオの国津神に対する台詞、「吾は天照大御神のいろせなり。故今、天より降り坐しつ」とともに、この記述に表現されています。
この大刀は、八咫鏡、八尺勾瓊とともに、いわゆる三種の神器として天孫降臨の際にホノニニギ一行に託されます。
草那藝之大刀
草那藝之大刀は、くさなぎのたち、と読みます。書紀本文では「草薙剣」とあり、細注はこれを「倶娑那伎能都留伎」(くさなぎのつるぎ)と訓ませています。この例からもツルギとタチが区別されていないことが分かります。細注はさらに、
一書に云はく、本の名は天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)。蓋(けだ)し大蛇(をろち)居る上に、常に雲気有り。故以て名くるか。日本武皇子(やまとたけるのみこと)に至りて、名を改めて草薙剣と曰ふ。
と続きます。草薙剣は、のちにヤマトタケルノミコトがこの剣で草を薙(な)いで危地を脱したことからの命名ですが、遡ってこの時点で既にそう呼ばれています。そのような例は記紀に頻出します。