アシナヅチ・テナヅチ老夫婦から、毎年高志(こし)からヤマタノオロチがやってきて娘たちを食らうこと、そして今年もオロチがやってくる時期になったことを聞いたスサノオは、老夫婦の娘クシナダヒメを妻として差し出すか尋ねます。
了解の返事を得たスサノオは、すぐさまヤマタノオロチ退治の手筈を整えます。それは、正面きって戦いを挑むというのではなく、強い酒で酔わせて眠らせ、その隙を突くという作戦でした。
スサノオのヤマタノオロチ退治の段・本文
於湯津爪櫛取成其童女而
於湯津爪櫛取成其童女而は、湯津爪櫛(ゆつつまぐし)に其の童女(をとめ)を取り成して、と読みます。書紀本文では、
立(たちなが)ら奇稲田姫を、湯津爪櫛に化為(とりな)して、御髻(みづら)に插したまふ。
とあります。
「取り成す」は変形させるの意で、国譲りの段に、
其の御手を取らしむれば、即ち立氷(たちひ)に取り成し、亦(また)剣刃(たちのは)に取り成す。
と出てきます。湯津爪櫛(ゆつつまぐし)の「湯津」は「斎つ」で、神聖な、という意味です。黄泉の国の段にも、
左の御みづらに刺させる湯津津間櫛の男柱一箇(をばしらひとつ)取り闕(か)きて、一火燭(とも)して、云々
右の御みづらに刺させる湯津津間櫛を引き闕きて投げ棄てたまへば、乃ち笋(たかむな)生りき。
などとありました。このように、櫛には悪鬼や邪気を払う特別な呪力があるとされており、ここでスサノオがクシナダヒメを爪櫛に変えてみずらに挿したのも、そのような意味があったと考えられます。
また、櫛名田比売の「櫛」の字に引かれてこの話が成立したとする指摘もあります(新井白石「古史通」)。
美豆良
美豆良は、みづら、と読みます。古代の男子の髪型です。黄泉の国の段にも、アマテラスとスサノオのうけいの段にも出てきました。
八鹽折之酒
八鹽折之酒は、やしほをりの酒、と読みます。何度も繰り返して醸した強い酒、という意味です。「鹽」は「塩」の異字体です。
書紀には「八醞(やしほをり)の酒」とあり、説文解字(中国の最古の漢字字書)に「醞 醸也」とあります。「八鹽折」については、釈日本紀私記に、
或説、一度醸熟、絞取其汁、棄其糟、更用其酒爲汁、亦更醸之、如此八度、是爲純酷之酒也、謂之鹽者、以其汁、八度絞返故也、今世亦謂一度便爲一鹽也、謂之折者、以其八度折返故也、是古老之説也。
(ある説によると、一度醸造して、その汁を絞り、その糟を棄て、さらにそうやってできた酒を汁としてふたたび醸造する。これを八度繰り返すと、強い酒ができる。鹽(しほ)というのは、その汁を八度絞(しほ)り返すことによる。今の世にも、一度を一鹽(ひとしほ)という。折というのは、八度折り返すことによる。これは古老の説である)
とあるとおりです。一回の醸造作業を「一鹽」(ひとしほ)と呼び、それを八回「折り返す」、つまり、「八回しほることを折り返す」ことから「八鹽折」の酒と呼ぶ、ということです。
したがって、万葉集の、
くれなゐの 八塩の衣 朝な朝な 馴れはすれども いやめづらしも (十一・二六二三)
竹敷(たかしき)の うへかた山は くれなゐの 八しほの色に なりにけるかも (十五・三七〇三)
くれなゐの 八塩に染めて おこせたる 衣の裾も とほりて濡れぬ (十九・四一五六)
などにある「しほ」は、物を染汁にひたす回数を表す助数詞ですが、これが酒の醸造の回数を表すのにも用いられていたことになります。
この「しほ」には音から「塩」、意味から「入」の字があてられ、現代でも「一入」(ひとしお)と使われます。
宣長も、新撰字鏡(平安前期の現存最古の漢和辞典)に「■(酉へんに戎) 志保留(しほる)」とあり、この字は醲(説文に「醲 厚酒也」)の俗字と考えられることから、古くは厚酒を造ることを「しほる」と言ったのだろう、としています。
さらに宣長は、この「しほ」とは、酒でも染料でも「汁」のことを指しているのではないか、としています。イザナギ・イザナミが「鹽こをろこをろにかきなして」とある「鹽」は、国土(おのごろ島)となる素(もと)でした。
なお、この「八鹽折」という言葉は酒や染物以外にも使われたようで、垂仁記に「八鹽折之紐小刀」が出てきます。何度も繰り返し鍛えた紐付きの小刀のことです。
醸
醸は、かむ、と読みます。酒を造ることを言います。新撰字鏡に「醸 造酒也 佐介加无(さけかむ)」とあります。
「かむ」というのは、かつては米を噛んで酒を造ったことによります。大隅国風土記逸文(塵袋第九)に、
大隅ノ国ニハ、一家ニ水ト米トオ設ケテ、村ニ告ゲメグラセバ、男女一所ニ集マリテ、米ヲカミテ、酒槽ニ吐キ入レテ、チリヂリニ帰リヌ。酒ノ香ノ出デクルトキ、又集マリテ、カミテ吐キ入レシ人ドモ、コレヲ飲ム。名ヅケテ口カミノ酒ト云フト云々。
とあります。これは唾液に含まれる酵素(アミラーゼ)により米のデンプンを糖化し、それをアルコール発酵させることで酒を造る方法です。
一方、宣長は、口で噛んで作るから「かむ」とする説を、「おしあてのひがことなり」として退け、倭名抄に「麹 和名加無太知(かむたち)」とあるのは、「かびたち」のことで、酒はカビだたせて作るから「かむ」というのだとしています。「けむる」と「けぶる」、「つむる」と「つぶる」のように、マ行とバ行の音はしばしば交替します。
なお、麹(こうじ)は、この「かむたち」の転であると考えられます。
天地初發の段で「葦牙」(あしかび)という言葉がありました。この「かび」(牙)は芽のことで、植物の芽もカビも麹も、同じ「かび」という言葉で表されました。倭名抄に「殕 賀布(かふ) 食上生白也」とあり、土や食べ物から芽吹くことを「かぶ」といい、その名詞化が「かび」となったと考えられます。
こちらはコウジカビによってデンプンを糖化する方法ですが、正倉院文書や平城京木簡に麹(かむたち)の記載があり、また播磨国風土記の宍禾郡条にも、大神の飯が濡れてコウジカビが生え、そのカビで酒を醸させたという記事が見えることから、こちらも古くから利用されていたことが分かります。
佐受岐
佐受岐は、さずき、と読みます。書紀には「仮庪」とあり、これを「佐受枳」(さずき)と訓ませています。
「庪」とは供え物などを置く台という意味で、「さずき」は神への供物を載せるために、仮に作った棚または床ということになります。
ここでは、ヤマタノオロチに飲ませる酒を入れた槽を置くための仮設の棚という意味になります。
また、罪人に刑罰を加えるための仮設の処刑台の意味にも用いたようで、雄略紀二年の条に、
百済池津媛(くだらのいけつひめ)、天皇の将(まさ)に幸(め)さむとするに違ひて、石川楯(いしかはのたて)に婬(たは)けぬ。天皇、大きに怒りたまひて、大伴室屋大連(おほとものむろやのおほむらじ)に詔して、来目部(くめべ)をして夫婦の四支(よつのえだ)を木に張りて、仮庪の上に置かしめて、火を以て焼き死(ころ)しつ。
とあります。「婬(たは)け」とは姦通することです。
なお、「さずき」は元々はこのような用法だったようですが、やがて「さじき」(桟敷)と変化し、もっぱら見物のための席を意味するようになりました。この用法では、神功紀の摂政元年二月の条の、
二の王各(おのおの)仮庪に居します。赤き猪忽(たちまち)に出でて仮庪に登りて、鹿坂王(かごさかのみこ)を咋(く)ひて殺しつ。
があります。これは鹿坂王、忍熊王が、自分たちの謀反の成否を占う祈狩(うけひがり)を「さずき」に座って見物する場面です。
於其垣作八門 毎門結八佐受岐
於其垣作八門 毎門結八佐受岐は、其の垣に八つの門(かど)を作り、門毎(ごと)に八つのさずきを結ひ、と訓読します。
普通に読むと、八つの門のそれぞれに八つのサズキを結ったのだから、合計六十四のサズキということになりますが、宣長は、
門毎に一つづつにて、八門なれば、合せて八つ結(ゆふ)を云、【一門毎に八つづつ、合せて六十四にはあらず、】古文には此(かく)言て、ほのかに通(きか)せたること多し。
としています。これに従うと、ここは「其の垣に八つの門(かど)を作り、門毎(ごと)に一つ、合わせて八つのさずきを結ひ」といった意味になると思われます。
(1.7.4 草薙の剣(2)に続きます。)