こうして須佐之男命は高天原を追われて、出雲の国の肥の河の上流の、鳥髮という名の地に降った。その時、箸がその川を流れ下ってきた。それで須佐之男命は、その川の上流に人がいると思って、尋ね求めて上っていくと、老人と老女が二人いて、少女を間に置いて泣いていた。そこで須佐之男命が、「あなた方は誰か」と尋ねると、その老人は、「私は国つ神、大山津見神の子です。私の名は足名椎といい、妻の名は手名椎といい、娘の名は櫛名田比売といいます」と答えた。また、「あなたが泣くわけは何か」と尋ねると、「私の娘はもともと八人いましたが、高志の八俣のおろちが毎年来て娘たちを食らってしまうのです。今そのおろちがやって来る時期なので泣いているのです」と答えた。「その姿はどのようなものか」と尋ねると、「その目は赤かがちのようで、一つの身体に頭が八つ、尾が八つあります。その体には苔やヒノキやスギが生え、その長さは八つの谷、八つの山に渡り、その腹を見ると、一面がいつも血にまみれて爛れています」と答えた。【ここに赤かがちというのは、今で言う酸醤のことである。】そこで、須佐之男命がその老人に、「これがあなたの娘というのなら、私にくれませんか」と言うと、「恐れ多いことですが、お名前を存じ上げません」と答えた。「私は天照大御神の弟である。そして今、天より降ってきたところだ」と答えた。すると足名椎・手名椎神は、「そういうことならば恐れ多いことです。娘は差し上げましょう」と言った。
(前の記事の続きです。前記事は1.7.3 八俣の大蛇(2)です。)
赤加賀智
赤加賀智は、赤かがち、と読みます。細注にもあるように、今で言う酸漿(ほおずき)のことです。書紀にも猿田彦の容姿が、
眼は八咫鏡の如くして、然(てりかかやけること)赤酸(あかかがち)に似れり。
と描かれています。オロチの場合と同じく、赤くらんらんと輝く眼についての描写であることが注目されます。真っ赤に熟れたほおずきの丸い実の鮮やかな色が、古代人にとって非常に印象的であったことをうかがわせます。
ただし、「赤かがち」という呼び方は、真っ赤に熟れたほおずきのみに対して使われたようで、ほおずき一般に対するものではなかったようです。実際、類聚名義抄(平安末期の漢和辞典)に「酸醤」をほほつき、「赤酸醤」をあかかかちと訓んで区別しています。
宣長は「かがち」を「赫都実」(かがつみ)が約まったものとしています。「かが」は「かがやく」、「つ」は「の」、すなわち「かがやく実」ということです。
一方、記注釈は、「ち」を例の神霊の意に取った上で、「蟒蛇、蟒 和名夜萬加々智(やまかがち) 蛇之最大也」(倭名抄)などとあるのによって、
眼きらめく大蛇をカガチと読んでいたのが(尾を以て呼んだのがヲロチ、眼を以て呼んだのがカガチであろう)ホホヅキの方に転じたのかも知れぬ。
としています。なお、同様の説は時代別国語大辞典にも述べられています。
八頭八尾
八頭八尾は、書紀では「頭尾各八岐有り」となっています。ここも八稚女、谿八谷峽八尾などと同じく、八つの頭に八つの尾を持った、と取ることも、数を特定せず、多くの頭と尾を持った、と取ることもできます。
蘿及檜榲
蘿及檜榲は、蘿はコケ、檜はヒノキ、榲はスギのことです。蘿を「ひかげ」と訓んで、ヒカゲノカズラ(アメノウズメがたすきにした)とする説もあります。
書紀では「松柏、背上に生ひて」となっています。なお、このあたりのオロチの描写は、肥河(斐伊川)とその両岸の姿を描いたものであるとする見方があります:
八つの頭と尾はいくつにも分かれた河口や支流のさまを、体に生えたコケや木は両岸のさまを、谷や尾根を渡る姿は蛇行する斐伊川の流れを、爛れ流れる血は崩れ落ちた両岸の山肌のさまを表し、赤い目はその妖怪性を強調する。(三浦佑之「口語訳古事記」)
谿八谷峽八尾
谿八谷峽八尾は、たにやたに、をやを、と読みます。八つの谷と八つの峰、または多くの谷と峰、という意味です。書紀では「八丘八谷(やをやたに)の間に蔓延(はひわた)れり」となっています。播磨国風土記の宍禾(しさは)郡条に、
伊和の大神、国作り堅め了(を)へましし以後、山川谷尾を堺に、云々
(山と川、谷と尾(峰)といった自然地形によって国の境界を定めた)
とあるように、山の峰は「尾」(を)と呼ばれました。ただし、「峰」が「山尖高處也」(倭名抄)であるのに対し、山の「尾」とは尾根、つまり山裾が尾のように長く延びたところを指すのが本来だったかと考えられます。古今集の、
山ざくら 我(わが)みにくれば はるがすみ 峯にもをにも 立ちかくしつつ (巻一・春歌上・51)
はこの二つを使い分けている例です。
血爛
血爛は、古事記伝は血あえ爛れたり、と訓読しています。血に爛れたり、血爛れたり、とも訓読されます。
書紀にはこの描写はありません。「あえ」はヤ行下二段動詞「あゆ」の連用形で、(花や実が)落ちる、(血や汗が)したたる、という意味です。万葉集の橘の歌一首に、
あゆる実は 玉に貫きつつ 手に纏(ま)きて 見れども飽かず (十八・四一一一)
と出てきます。なお、大系記や紀注釈は古事記伝のこの訓読を無理であるとしています。
恐亦不覺御名
恐亦不覺御名は、恐(かしこ)けれども、御名を覚(し)らず、と訓読します。
スサノオがアシナヅチに、娘のクシナダヒメを妻にくれないかと尋ねたのに対し、アシナヅチが、「恐れ多いことですが、あなたがどういう方なのか存じません」と返したものです。万葉集冒頭の、雄略天皇の御製と伝わる歌、
この岳(をか)に 菜摘ます児 家聞かな 告(の)らさね・・・われこそは 告らめ 家をも名をも (一・一)
などに見えるように、求婚の際には、男女ともにお互いの素性や名前を伝え合うことが婚約成立の要件でした。そこでスサノオは自分がアマテラスの「いろせ」(同母弟)であることを伝えました。
伊呂勢
伊呂勢は、いろせ、と読みます。母を同じくする兄弟のことです。
「いろ」というのは同腹・同母という意味で、他に「いろは」(生母)、「いろえ」(同母兄)、「いろと」(同母弟妹)、「いろね」(同母兄姉)、「いろも」(同母妹)などの用例があります。
「いろ」に対する言葉は「まま」(異腹・異母)で、「まませ」(異母兄弟)、「ままはは」(継母)などがあります。
なお、きょうだいの呼び方の規則は以下のとおりです:
- 女から男を呼ぶときは「せ」(年齢関係なし)
- 男から女を呼ぶときは「いも」(同上)
- 同性(女から女、男から男)を呼ぶときはいずれも「え」(年上)、「おと」(年下)
例えば、ここでスサノオが「アマテラスのイロセ」を自称しているのは、アマテラスが女神であることによります。もしアマテラスが男神ならば「イロト」となります。