さて、こうして、速須佐之男命はやすさのおのみことは宮を造るための土地を出雲の国に求めた。そして須賀の地にたどり着いて、「この地にやって来て、私の心はすがすがしい」と言って、その地に宮を造って住んだ。それで、その地を今、須賀という。この大神が初めに須賀の宮を造った時に、そこから雲が立ち上ったので、御歌を詠んだ。その歌は、
  八雲やくも立つ  出雲八重垣やえがき  妻籠つまごみに  八重垣作る  その八重垣を
 そして、かの足名椎神あしなづちのを呼んで、「あなたは私の宮の長になってください」と言い、また稲田宮主須賀八耳神いなだのみやぬしすがのやつみみのの名を与えた。

クリックで訓読文

かれここを以て其の速須佐之男命はやすさのをのみこと、宮造作つくるべきところを出雲国にぎたまひき。ここ須賀すがところに到りしてりたまはく、「あれ此地ここに来まして、が御心須賀須賀すがすがし」とのりたまひて、其地そこになも宮作りて坐しましける。故、其地をば今に須賀とぞ云ふ。の大神、初め須賀の宮作らしし時に、其地より雲立ちのぼりき。かれ、御歌みしたまふ。其の歌は、
  八雲やくも立つ  出雲八重垣やへがき  妻籠つまごみに  八重垣作る  その八重垣を
 是に足名椎神あしなづちのして、「いましが宮のおびとれ」と告言りたまひ、また名號稲田宮主須賀八耳神いなだのみやぬしすがのやつみみのほせたまひき。

クリックで原漢文

故是以其速須佐之男命、宮可造作之地求出雲國。爾到坐須賀【此二字以音下效此】 地而詔之、吾來此地、我御心須賀須賀斯而、其地作宮坐。故、其地者於今云須賀也。大神、作須賀宮之時、自其地雲立騰。爾作御歌。其歌曰、
  夜久毛多都 伊豆毛夜幣賀岐 都麻碁微爾 夜幣賀岐都久流 曾能夜幣賀岐袁
 於是喚其足名椎神、告言者任我宮之首、且負名號稻田宮主須賀之八耳神。 

クリックで言葉

《言葉》

  • 【須賀】すが 出雲の地名、意宇郡と大原郡の境界あたりか
  • 【須賀宮】すがのみや 熊野大社を指すか
  • 【八雲立つ】やくもたつ 多くの雲が幾重にも湧き立つさま、「出雲」の枕詞
  • 【出雲八重垣】いづもやへがき 湧き立つ雲の幾重にも重なった様子を垣にたとえたもの
  • 【妻籠みに】つまごみに 妻をこもらせるために
  • 【八重垣作る】やへがきつくる 実際の宮の垣とも、雲の比喩とも言われる
  • 【その八重垣を】そのやへがきを 「を」は目的語を表す格助詞、もしくは感動助詞
  • 【首】おびと 「おほひと」の略、首長・長官のこと
  • 【稲田宮主須賀之八耳神】いなだのみやぬしすがのやつみみの神 「八耳」は未詳、「みみ」は「み」(神霊)に同じか
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見事ヤマタノオロチを退治したスサノオは、オロチの尾から見つかったツムガリの大刀(のちの草薙の剣)をアマテラスに献上し、クシナダヒメを妻に迎え、新居とする宮を造るための土地を求めて出雲へ赴きました。

宮可造作之地

宮可造作之地は、宮造作(つく)るべき地(ところ)、と訓読します。クシナダヒメを妻に迎え、共に住むための新居の地を求めた、ということです。書紀には「婚(みあはし)せむ處を覓(ま)ぐ」とあります。「まぐ」は求める、という意味です。

古くは、結婚する際には新居を建てるのが習わしだったようで、イザナギ・イザナミが八尋殿を見立てたことが思い起こされます。他に、出雲国風土記の神門郡八野郷条に、

八野若日女命坐しき。その時、天の下造らしし大神、大穴持命、娶(あ)ひ給はむとして、屋を造らしめ給ひき。故、八野(やの)といふ。

という記事が見えます。

須賀地、我御心須賀須賀斯

須賀地、我御心須賀須賀斯は、それぞれ、すがのところ我が御心すがすがし、と読みます。書紀には、

遂に出雲の清地(すが)に到ります。清地、此れをば素鵝(すが)と云ふ。乃ち言ひて曰はく、「吾が心清清し」とのたまふ。此今、此の地を呼びて清(すが)と曰ふ。(神代紀・第八段・本文)

とあり、古事記の記述と一致します。スサノオが「私の心はすがすがしい」と言ったことから、その地が「すが」と呼ばれるようになったということです。

このように、神の名前や行動や言葉や持ち物などに地名の由来を求める説話(地名起源説話)は、記紀や風土記の類に多く見えます。

ここに類似の説話としては、播磨国風土記の揖保郡条に、菅生という地名の由来を説いて、

菅(すが)、山の辺に生へり。故、菅生(すがふ)といふ。一(ある)ひといへらく、品太の天皇、巡り行でましし時、井を此の岡に闢(ひら)きたまふに、水甚く清く寒し。ここに、勅りたまひしく、「水の清く寒きに由りて、吾が意(こころ)、すがすがし」とのりたまひき。故、宗我富(すがふ)といふ

また、出雲国風土記の意宇郡条に、

安来(やすき)の郷。郡家の東北のかた廿七里一百八十歩なり。神須佐乃烏命(かむすさのをのみこと)、天の壁(かき)立廻りましき。その時、此處(ここ)に來まして詔りたまひしく、「吾が御心は、安平(やす)けくなりぬ」と詔りたまひき。故、安来(やすき)といふ

というものがあります。

そもそもスサノオは、高天原での悪業の数々によって「祓へ」を科され、鬚や手足の爪までもが祓具として切り取られた上で追放された身でした。それでもなお罪穢れを祓いきれなかったのか、途中オオゲツヒメを殺すという悪行(ただし、このことが結果として五穀・蚕という大きな恵みをもたらす)を重ねてしまいますが、葦原中国に降ってからは一転して英雄的な活躍をします。

ヤマタノオロチを退治し、三種の神器の一つ、草薙の剣を手に入れてアマテラスに献じ、国津神の代表的存在であるオオヤマツミの血を引くクシナダヒメを妻として迎えます。こうして、子孫をふやし、彼らが葦原中国を作り上げていく足がかりが整えられました。その子孫の中にオオクニヌシ(大国主)がいます。

追放以前とは別人のようになったスサノオは、ここに至って初めて罪穢れを祓い去ることができ、そのことが「我が御心すがすがし」という言葉に表れているものと考えることができます。

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須賀宮

須賀宮は、宣長は須賀宮は熊野大社のことであろうと結論しています。出雲国風土記の記述を見ると、意宇郡条に、

野代川。源は郡家の西南のかた一十八里なる須我山より出で、北に流れて入海に入る。

熊野山。郡家の正南一十八里なり。謂はゆる熊野の大神の社、坐す。

とあり、熊野大社のある熊野山が須我山に近い位置にあることが見て取れます。また、同大原郡条の、

須我山。郡家の東北のかた一十九里一百八十歩なり。

御室山。郡家の東北のかた一十九里一百八十歩なり。神須佐乃乎命(かむすさのをのみこと)、御室を造らしめ給ひて、宿らせたまひき。故、御室といふ。

も注目されます。これらの記事をつなぎ合わせると、意宇郡(北東に位置する)と大原郡(南西に位置する)の境界に位置する熊野山・須我山・御室山(三山は隣接している)あたりに、スサノオの住まった「スガ」の地が想定されている、と見ることができます。

この郡境の地域にあって、とりわけ重要な神社が熊野大社で、延喜式では熊野坐神社といい、名神大社に指定されています。また、

出雲の国の青垣山の内に、下つ石ねに宮柱太知り立て、高天原に千木高知ります、いざなきの日まな子、かぶろき熊野の大神、くしみけのの命 (出雲国造神賀詞)

伊弉奈枳(いざなぎ)の麻奈古(まなご)に坐す熊野加武呂(かむろ)の命 (出雲国風土記・意宇郡条)

の二つに見える神は熊野大社の祭神であり、「イザナギのまな子(愛子)」とあることから、スサノオと同一視されているようです。

ただし、「かぶろき=かむろき」は「かむ」(神)+「ろ」(助詞「の」)+「き」(男性)で一般に祖神を表し、「くしみけの」の「みけ」は「御食」で穀霊を表すものと考えられ、これが本当にスサノオのことを指すのか、意見が分かれるところです。

宣長は、上の「イザナギのまな子」という記述の他に、文徳実録・三代実録で熊野・杵築(出雲大社のこと)の順に名前が挙げられること、熊野の勲位(神社に与えられる位階)が杵築よりも一等上であることなどを挙げ、その出雲大社を上回る熊野大社の格式の高さからも、その祭神は「須佐之男命に坐すこと、うたがひなきものなり」としています。

なお、熊野久須毘命の項でも触れましたが、この熊野の「くま」には、国譲りの際の大国主の言葉、「八十隈手(やそくまで)に隠りて侍ひなむ」にあるような「暗く奥まった場所」という意味や、「くましね」(奠稲、神饌の米)や「くましろ」(神饌の米を作る田)に見えるように「神への供物、神稲」という意味があるとされます。また、地名に神稲(くましろ)、人名に神代(くましろ)氏というのがあり、「くま」という言葉は「かみ」(神)と深い関わりがあることがうかがえます。

大神

大神は、須賀宮に鎮座したことをもってスサノオは大神と呼ばれるようになりました。

上の「須賀地、我御心須賀須賀斯」の項でも触れましたが、スサノオはオロチを退治し、クシナダヒメを娶り、須賀の地にたどり着き、子孫をふやして彼らが葦原中国を作り上げていく足がかりを整え、そしてその行いによって罪穢れを祓い去り、「我が御心すがすがし」という境地に至りました。

その時点で「大神」の称号を付されるのは、イザナギが数々の事績の果てに三貴子を生み、世界分治の事依さしを終えた後に「大神」と呼ばれるようになったのと軌を一にします。

自其地雲立騰

自其地雲立騰は、スサノオが初め須賀の地に宮を造ったときに、そこから雲が立ち上りました。記・紀ともに、どのような雲だったのかについて一切言及がありません。宣長は、

是れは此の地に宮造り婚(みあひ)坐て吉(よ)かるべき瑞(しるし)なりしか、又何の雲とも無れば、ただ尋常(よのつね)の雲にて、何となく立しにても有むかし。

と述べています。

1.7.5 須賀の宮(2)に続きます。)