こうして須佐之男命は高天原を追われて、出雲の国の肥の河の上流の、鳥髮という名の地に降った。その時、箸がその川を流れ下ってきた。それで須佐之男命は、その川の上流に人がいると思って、尋ね求めて上っていくと、老人と老女が二人いて、少女を間に置いて泣いていた。そこで須佐之男命が、「あなた方は誰か」と尋ねると、その老人は、「私は国つ神、大山津見神の子です。私の名は足名椎といい、妻の名は手名椎といい、娘の名は櫛名田比売といいます」と答えた。また、「あなたが泣くわけは何か」と尋ねると、「私の娘はもともと八人いましたが、高志の八俣のおろちが毎年来て娘たちを食らってしまうのです。今そのおろちがやって来る時期なので泣いているのです」と答えた。「その姿はどのようなものか」と尋ねると、「その目は赤かがちのようで、一つの身体に頭が八つ、尾が八つあります。その体には苔やヒノキやスギが生え、その長さは八つの谷、八つの山に渡り、その腹を見ると、一面がいつも血にまみれて爛れています」と答えた。【ここに赤かがちというのは、今で言う酸醤のことである。】そこで、須佐之男命がその老人に、「これがあなたの娘というのなら、私にくれませんか」と言うと、「恐れ多いことですが、お名前を存じ上げません」と答えた。「私は天照大御神の弟である。そして今、天より降ってきたところだ」と答えた。すると足名椎・手名椎神は、「そういうことならば恐れ多いことです。娘は差し上げましょう」と言った。
高天原を追われることになったスサノオは、去る前にオオゲツヒメに食事を乞いましたが、オオゲツヒメが食べ物を鼻や口や尻から出しているのを覗き見て、食事を汚して出そうとしているのだと勘違いし、殺してしまいます。殺されたオオゲツヒメの身体からは、蚕と五穀(稲・粟・小豆・麦・大豆)が成りました。カミムスビが登場し、これを取らせて種としました。このようにして、葦原中国のうつしき青人草(人間のこと)の生活の基盤である五穀が誕生しました。さらにスサノオは、出雲国の鳥髪という所に天降っていき、そこで少女を間に挟んで泣いている老夫婦に遭遇します。
故所避追而
故所避追而は、故(かれ)、避追(やら)はえて、と訓読します。
前段の最後の文は「故、是に神産巣日御祖命、茲(こ)れを取らしめて種と成したまひき」でした。「避追はえた」のは当然スサノオのはずなので、このつながりは不自然です。したがって前段の五穀起源説話は挿入されたもので、本来この文は、前々段の「神夜良比夜良比岐」(神やらひやらひき)の直後に続くものだったと考えられます。
出雲國之肥河上
出雲國之肥河上は、現在の島根県の斐伊川を指します。肥(ひ)は出雲国風土記の大原郡条に、
斐伊(ひ)の郷。郡家に属けり。樋速日子命(ひはやびのみこと)、此處(ここ)に坐す。故、樋(ひ)といふ。神亀三年、字を斐伊と改む。
とあります。郡家(こほりのみやけ)とは郡の役所のことです。延喜式神名帳の出雲国大原郡に「斐伊波夜比古(ひやはひこ)神社」が見えます。
樋速日子命(記)または速日神(紀一書)はカグツチがイザナギに十拳剣で斬られたときに血から成った神で、他の紀一書ではうけいによってスサノオが速日命を生んだとあります。同じ大原郡条に、
斐伊(ひ)の川。郡家の正西五十七歩なり。西に流れて出雲の郡多義(たけ)の村に入る。年魚・麻須(あゆ・ます)あり。
とあり、これが肥の河です。この大原郡家はもともと現在の雲南市大東町あたりにありましたが、のちに同市木次(きすき)町あたりへ移転したと考えられています。
斐伊川はこの風土記の記事のように、かつては西へ流れて神門水海(現在の神西湖)を経て日本海へ流れ込んでいましたが、江戸時代の寛永年間(1635、36)の大洪水以後、流れを東に変え、現在のように宍道湖に注ぐようになりました。
名鳥髮地
名鳥髮地は、名は鳥髪の地(ところ)、と訓読します。宣長は「此の字を、諸の本に名と作(かけ)るは誤なり」として、「名」を「在」に改めていますが、ここでは諸本に従いました。
鳥髪については、出雲国風土記の出雲郡条に、
出雲の大川。源は伯耆と出雲と二つの国の堺なる鳥上山より出で、流れて仁多の郡横田の村に出で、即ち横田・三處・三澤・布勢等の四つの郷を経て、大原の郡の堺なる引沼の村に出で、即ち来次・斐伊・屋代・神原等の四つの郷を経て、北に流れ、更に折れて西に流れて、即ち伊努・杵築の二つの郷を経て、神門の水海に入る。此は即ち、謂はゆる斐伊の川の下なり。河の両辺は、或は土地豊沃(こ)えて、五穀、桑・麻稔りて枝を頗(かたぶ)け、百姓の膏腴(ゆたか)なる薗(その)なり。
とあり、この鳥髪(鳥上)山が斐伊川の源流の地であることが分かります。なお、出雲の大川とは斐伊川のことです。
ところで、イザナミの葬られたところは、「出雲国と伯伎国との堺、比婆(ひば)の山」で、スサノオの赴く先は妣(はは)の国である根の国でした。これらのことから、古事記においては、出雲国と伯耆国(鳥取県)の境あたりが根の国や黄泉の国へ通じる領域であると捉えられていたことが分かります。
スサノオがその荒ぶる所業の数々によって、高天原と葦原中国から追放されてしまうことについて、前々段で、
スサノオという存在そのものが、高天原と葦原中国に生じた罪穢れを一身に背負って、そこから流されていく人形である。
という見方があることに触れました。大祓祝詞に、
遺る罪はあらじと祓へたまひ清めたまふ事を、高山・短山の末より、さくなだりに落ちたぎつ速川の瀬に坐す瀬織津比咩(せおりつひめ)といふ神、大海の原に持ち出でなむ。かく持ち出で往なば、荒塩の塩の八百道の、八塩道の塩の八百会に坐す速開都比咩(はやあきつひめ)と云ふ神、持ちかか呑みてむ。かくかか呑みては、気吹戸に坐す気吹戸主といふ神、根の国・底の国に気吹き放ちてむ。かく気吹き放ちては、根の国・底の国に坐す速佐須良比咩(はやさすらひめ)といふ神、持ちさすらひ失ひてむ。かく失ひては、天皇が朝廷に仕へまつる官官の人等を始めて、天の下四方には、今日より始めて罪といふ罪はあらじと、云々
とあるように、罪はその場所場所の神によって川〜大海原〜根の国と運ばれ、そこで消えてしまう、とされており、人形(ひとがた)や身代といったものに罪穢れを移して川に流してお祓いをする、という習俗は、その観念に基づくものでした。
スサノオが上のような「人形」であるとするならば、高天原から追いやられてまず降り立ったのが、「根の国」に通じる場所とされた出雲の国の、さらにその地を代表する川である斐伊川の源流の地である鳥髪山の頂であるというのは、もっともな事だと言えます。
此時箸從其河流下
此時箸從其河流下は、此の時、箸、其の河より流れ下りき、と訓読します。
倭名抄に「唐韻云 筋 和名波之(はし) 匙也 字亦作箸」とあり、箸はかつて筋とも書いたようです。書紀本文の同じ場面は、箸ではなく、
時に川上に啼哭(ねな)く聲(こゑ)有るを聞く。故、聲を尋ねて覓(ま)ぎ往(いでま)ししかば、云々
となっています。新撰姓氏録の佐伯直(右京皇別)の条に、
誉田天皇為定国堺、車駕巡幸、到針間国神崎郡瓦村東崗上。于時、青菜葉、自崗邊川流下。天皇詔、應川上有人也。
(応神天皇が、国境を定めるために車駕で行幸し、播磨国の神崎郡瓦村の東の岡の上にたどり着いた。その時、青菜の葉が岡の辺の川から流れ下ってきた。天皇は「川上に人がいるはずだ」と言った)
という類似の説話があります。なお、魏志倭人伝には「食飲には豆(へんとう、高坏のこと)を用い手食す」とあり、三世紀ごろの倭人は高坏に食物を盛り、箸を使わず手で食べていたようです。
老夫
老夫は、おきな、と読みます。翁のことです。倭名抄に「翁 老人也 和名於岐奈(おきな)」とあります。書紀では「おきな」には老夫・老公・老父・長老の字があてられています。
老女
老女は、おみな、と読みます。新撰字鏡には「■(女へんに長) 於弥奈(おみな)」、倭名抄には「嫗 和名於無奈(おむな) 老女之称也」とあります。書紀では「おみな」は老婆・老嫗・老女の字があてられています。もともとは「おみな」でしたが、時代が下るにつれて「おむな」「おうな」と訓まれるようになりました。
若い女性のことは「をとめ」「をみな」といい、若い男性のことは「をとこ」「をぐな」といいました。
「お」は大、「を」は小を意味し、他には祖父母を「おじ・おば」、親のきょうだいを「をじ・をば」という例があります。
また、イザナギ・イザナミやカムロキ・カムロミ(大祓祝詞)の例にあるように、「き」は男、「み」は女を指します。
童女
童女は、をとめ、と読みます。対する語はをとこです。これらは結婚適齢期に達した若い男女に対して使われました。
それよりもさらに若い少年少女に対する言葉は「をぐな」「をみな」です。
時代が下るにつれ、「を」と「お」の区別はなくなり、さらに「をとこ→おとこ」、「をみな→おんな」となって現在に至ったものと考えられます。
(1.7.3 八俣の大蛇(2)に続きます。)