そして、八百万の神々は、一緒に相談して、速須佐之男命すさのおのみことにたくさんの贖罪の品物を科し、またその鬚と手足の爪を切ってはらえをさせ、高天原から追放した。

クリックで訓読文

ここに八百万の神、共にはかりて、速須佐之男命すさのをのみこと千位置戸ちくらおきとおほせ、また鬚と手足の爪を切りはらへしめて、かむやらひやらひき

クリックで原漢文

於是八百萬神共議而、於速須佐之男命負千位置戸、亦切鬚及手足爪令祓而、神夜良比夜良比岐

底本では、「拔」

クリックで言葉

《言葉》

  • 【千位置戸】ちくらおきと 「くら」は物を載せる台、「おきと」は祓へのために供する品物
  • 【神夜良比夜良比岐】かむやらひやらひき 「神」は神の行為を表す接頭辞、「やらふ」は追放する
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八百万の神たちがアマテラスを天の石屋戸から引っ張り出すことに成功し、高天原と葦原中国に光明が戻りました。次に神々は一緒に相談し、スサノオの処遇を決めました。

千位置戸

千位置戸は、ちくらおきと、と読みます。書紀には、

科(おほ)するに千座置戸を以てして、遂に促(せ)め徴(はた)る。(神代紀・第七段・本文)

罪を素戔嗚尊に科せて、其の祓具(はらへつもの)を責(はた)る。(同・一書第二)

千座置戸の解除(はらへ)を科せて、(同・一書第三)

とあります。「千」は数の多いこと、「くら」とは祓具を載せる高くした場所や台を指します。祓具とは、罪や穢れを払うために課せられた品物をいいます。

大祓祝詞に「千座の置座に置足はして」とある「置座」(おきくら)も同じ意味です。人の座る場所を「くらゐ」(位)ということから、「座」も「位」も同じ意味で使われています。

「戸」については、宣長は、「戸は處の意と誰れも心得て有るめれど、さては負(おふせ)と云むこと叶はず」として、応神記の伊豆志袁登売(いづしをとめの)神の条に、詛事(とこひごと、呪いをかけること)に用いた種々の物を指して詛戸(とこひど)と呼んでいることから、ここも「くら」に置く祓具を指して「置戸」と呼んでいるのだろうとしています。

以上をまとめると、「千位置戸」は「たくさんの台に置かれた祓具(はらへつもの)」という意味になります。

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亦切鬚及手足爪令祓而

亦切鬚及手足爪令祓而は、亦(また)、鬚と手足の爪を切り、祓へしめて、と訓読します。底本や延佳本ではこの「祓」は「拔」となっており、宣長はこの部分を「亦鬚を切り、手足の爪をも拔(ぬ)かしめて」と訓読しています。

ここでは、

其身生蘿桧榲、(神代記)
(亦、其の身に蘿(こけ)と檜榲(ひすぎ)と生ひ)

定賜國國之堺大縣小縣之縣主也。(成務記)
(亦、国国の堺、及(また)大県・小県の県主を定め賜ひき)

其妹口比賣奴理能美、(仁徳記)
(亦、其の妹口比売、及(また)奴理能美)

に見られるように、古事記においては「A(名詞)B(名詞)・・・」の表記が一つの様式として用いられていること、記伝の訓では「拔」だけが使役形になってしまうことの座りの悪さなどからも「祓」が正しい、とした記注釈の説に従います。

したがって「切」は鬚と手足の爪の両方にかかり、そのことによって「祓へ」がなされるということです。書紀に、

髪を拔きて、其の罪を贖(あか)はしむるに至る。亦曰はく、其の手足の爪を拔きて贖ふといふ。(神代紀・第七段・本文)

其の祓具を責る。是を以て、手端の吉棄物、足端の凶棄物有り。亦唾を以て白和幣とし、洟を以て靑和幣として、此を用て解除(はらへ)を竟(をは)りて、(同・一書第二)

手の爪を以ては吉爪棄物とし、足の爪を以ては凶爪棄物とす。(同・一書第三)

とあるように、鬚や手足の爪を切ることは刑罰ではなく、切った鬚や爪を祓具とするためでした。

この「棄物」は「きらひもの」と訓みますが、これはその部分が不浄のものとして棄てられるべきものであったための呼び方です。つまり、髪や爪や唾や洟といった身体から離すことのできる物に当人の罪穢れを移し、それを「棄物」とすることで、その身を浄めることができる、ということです。

なお、紀一書に「世人、慎みて己が爪を収むるは、此其の縁なり」とあるように、切られた爪はすぐに棄てられたわけではなく、大事に収めておく習慣があったようです。大系紀によると、

爪や毛髪は切り取られた後も体の一部であり、それに呪術をかければもとの体に害を与えると考えられていた

ようで、したがってそれはむやみに他人に渡すものではなく、またそれを手に入れた者は、そのもとの持ち主の生き死にをも自由にできるものとされており、そのため髪や手足の爪を切って差し出させることが「祓へ」として成り立った、という側面があるようです。

神夜良比夜良比岐

神夜良比夜良比岐は、かむやらひやらひき、と読みます。父イザナギが海原を治めずに泣きいさちるばかりのスサノオに「汝、此の国にな住みそ」と言って「神やらひにやらひ賜ひき」とありました。

葦原中国からも追放され、高天原からも追放されたスサノオにとって、根の堅洲国が唯一の居場所になってしまいました。そのことについて、釈日本紀に、

先師申云、人形者、所謂素戔嗚尊之濫觴。拔手足之爪贖其罪、身代之義也。号贖物是也。

という解釈があります。「人形はスサノオに始まる、手足の爪を抜くのは身代の意で、これを贖物と呼ぶ」ということです。

人形(ひとがた)とは、人の罪穢れを人の形をした和紙などに移し、水に流すことで取り除くものです。いわゆる身代(みのしろ)も人形と同じで、本人の身代わりという意味です。

つまりここでは、スサノオという存在そのものが、高天原と葦原中国に生じた罪穢れを一身に背負って、そこから流されていく人形である、ということです。