そこで速須佐之男命は天照大御神に、「私の心は清く明るいから、私の生んだ子は女子だった。これによって言えば、当然私の勝ちだ」と言って、勝ちに乗じて天照大御神の耕作する田の畔(あぜ)を壊し、灌漑用の溝を埋め、また大御神が新嘗の新穀を食べる御殿に糞をしてまき散らした。
しかし、それでも天照大御神はそれをとがめだてせずに、「糞のようなものは、酔ってへどを吐き散らそうとして、我が弟の命はそうしたのでしょう。また、田の畔を壊して灌漑用の溝を埋めたのは、土地がもったいないと思って、我が弟の命はそうしたのでしょう」と善い方に言い直したものの、なおその悪い行いは止まず、ますますひどくなった。
天照大御神が、神聖な機屋にいて、神に献上する御衣を機織り女たちに織らせていたときに、速須佐之男命がその機屋の棟に穴をあけて、斑入りの馬を逆剥ぎにして落とし入れたところ、機織り女はこれを見て驚き、梭で女陰を突いて死んでしまった。そして、天照大御神はそれを見て恐れて、天の石屋の戸を閉じて中にこもった。
(前の記事の続きです。前記事は1.6.1 須佐之男命の勝さび(3)です。)
服屋之頂
服屋之頂は、頂は、むね、と訓みます。家屋の棟(屋根の斜面同士がぶつかる稜線の部分)のことです。スサノオはここに穴を穿ち、逆剥ぎにした斑馬を中に落としこみました。
天斑馬
天斑馬は、あめのふちこま、と読みます。斑馬(ふちこま)とは、斑(ぶち)のある馬のことです。倭名抄に「駁馬 俗云布知無萬(ふちむま) 不純色馬也」とあります。
現代語では「ぶち」と濁っていますが、「凡て首(はじめ)を濁る言は古へは無ければ、布(ふ)を清むべし」(古事記伝)、また、馬は「うま」か「こま」で、倭名抄には「駒 和名古萬(こま) 馬子也」とありますが、書紀に天斑駒・斑駒とあるのに従って、ここも「ふちこま」と訓んでいます。
逆剥
逆剥は、「逆剥ぎ」とは、動物の皮を尾の方から頭の方へ逆向きに剥ぐことだと言われています。書紀では「生剥」ともあり、神功記や大祓祝詞に「生剥逆剥」とあります。生剥ぎの方は、動物の皮を生きたまま剥ぐこととされていますが、生剥ぎと逆剥ぎは同じものである可能性もあります。これもアハナチやミゾウメなどと同じく、天つ罪の一つに数えられています。
天衣織女
天衣織女は、あめのみそおりめ、と読みます。底本や延佳本などではこうなっていますが、真福寺本などでは「天服織女」(あめのはたおりめ)となっています。
梭
梭は、ひ、と読みます。緯(よこいと)を巻いた管をその内側に収めた舟形の道具です。これを経(たていと)に左右からくぐらせることで機を織っていきます。
書紀では同じ「梭」の字ですが、これを古訓では「かび」と訓んでいます(宣長はこの訓を誤りとしています)。スサノオが忌服屋の頂から天斑馬を落としたことがもとで、天衣織女は梭でその女陰を突いて死んでしまいます。
紀一書(第一)の同じところでは、稚日女(わかひるめ)尊が斎服殿(いみはたどの)で神之御服(かむみそ)を織っていて、梭(かび)で怪我をして神避ってしまった、とあり、本文ではアマテラス自身が梭で怪我をしてしまった、となっていることは、上の忌服屋の項でも触れました。
見畏
見畏は、アマテラスが、スサノオの数々の荒ぶる所業を見て、恐れて天の石屋戸にこもった、という意味です。
これは、書紀の方で「發慍」・「恚恨」(怒る)、スサノオに向かって「汝猶黒(きたな)き心有り。汝と相見じ」と言う、など、恐れからではなく、怒りから天の石窟にこもったのと対照的です。
書紀では一貫してスサノオが悪者扱いされているのに対し、古事記ではスサノオは必ずしも悪者とは捉えられていないことが、ここでも表れています。
天石屋戸
天石屋戸は、あめのいはやと、と読みます。あめのいはやと、あめのいはやのと、とも訓みます。宣長は、
必しも実(まこと)の岩窟(いはや)には非じ、石(いは)とはただ堅固(かたき)を云るにて、天の石位(いはくら)天の石靫(いはゆぎ)天の磐船(いはふね)などの類にて、ただ尋常の殿をかく云るなるべし。
としています。「屋戸」は「屋の戸」つまり家屋の入り口という意味で、万葉集に、
暮(ゆふ)さらば 屋戸開け設(ま)けて われ待たむ 夢に相見に 来むとふ人を (四・七四四)
人の見て 言とがめせぬ 夢にわれ 今夜(こよひ)至らむ 屋戸閉(さ)すなゆめ (十二・二九一二)
などの用例があります。この「屋戸」が転じて「宿」(やど)つまり家屋そのものを指すようになりました(大系本万葉集)。
宣長は上のように述べ、さらに「書紀に岩窟とある文字に拘(かかは)るべからず」とし、天石屋戸を岩窟ではなく通常の御殿と取りました。
その一方で、書紀では「天石窟」の「磐戸」という書き方がされています。また、次の段に「爾(すなは)ち高天原皆暗く、葦原中国悉に闇(くら)し」とあるのは、アマテラスがこもったのはただの御殿ではなく、光を一切遮断する岩窟であるというイメージを喚起させます。
さらに万葉集の、博通法師、紀伊国に往きて三穂の石室を見て作る歌に、
石屋戸に 立てる松の樹 汝(な)を見れば 昔の人を 相見るごとし (三・三〇九)
とあり、「石屋戸」は石室(またはその入り口)を意味する言葉でもあったことが分かります。
これらのことから、「天の石屋戸という語がかたがた岩窟をも暗示していることは否めない」(記注釈)ことは確かだと言えそうです。
なお、大系記は、上の宣長の説を却下し、「やはり岩窟と見るべきである」としていますが、記注釈は「『天の石屋戸』は両義にわたっている」として、必ずしもどちらかに限定するべきではないとしています。
閇
閇は、たてて、と読みます。さして・とぢて、とも訓みます。「閉」と同じ意味です。諸本には「開」とありますが、宣長はこれを誤りとしてこの「閇」に改めています。
全集記はこの改訂を「あたらない」とし、「もともとは閉じている戸を開いてこもるのである」としています。一方、記注釈では、「戸を開いてこもるといういいまわしは日本語としておかしい」として、宣長の案に従っています。なお、書紀では、「磐戸を閉(さ)し」「磐戸を閉著(さ)し」とあります。
刺許母理
刺許母理は、さしこもり、と読みます。宣長は「刺(さす)は、闔(たて)たる戸に物を刺て固むるを云」と説明しています。つまり、鍵や錠をかけて門や戸を鎖す、という意味です。
万葉集に「門立てて 戸も閇してあるを」(十二・三一一七)、「門立てて 戸は闔(さ)したれど」(十二・三一一八)とあり、「立て」は「閉じる」、「さし」は「鍵などをかけて鎖す」という区別があります。
他に、「家にありし 櫃に鏁(かぎ、金へんに巣)刺し 蔵(をさ)めてし」(十六・三八一六)、「群玉の樞(くる)に釘刺し 固めとし」(二十・四三九〇)などの用例があり、ここの「さしこもり」の「さし」もこの意味であると考えられます。
一方、大系記のように、「さし」を単なる接頭辞であるとする説もあります。
「こもる」は書紀本文には「幽居」とあります。かつて「石室に隠れる」ことは、貴人が死ぬことを意味しました。万葉集の、
神さぶと 磐隠(がく)ります やすみしし わご大君 (二・一九九)
は、今は神たらんと「磐隠れ」をしている天武天皇、という意味で、また、河内王を豊前国鏡山に葬る時の歌、
豊国の 鏡山の 石戸立て 隠(こも)りにけらし 待てど来まさず (三・四一八)
は、河内王が墳墓に磐戸を立てて隠(こも)ったまま、いくら待ってもやって来ない、という意味です。
このアマテラスの石屋戸ごもりも、そのように貴人の死として解釈する向きがあったようで、宣長は「此の石屋戸に隠坐るを、『神避坐を此(かく)云るなり』と云は・・・いみしき邪説なり、【もし日の神崩りましまさば、此の世は滅ぶべし】」として却下しています。