そして、この、後に生まれた五柱の子のうちの天菩比命あめのほひのみことの子である、建比良鳥命たけひらとりのみこと【これは出雲国造いずものくにのみやつこ无邪志むざしの国造、上菟上かみつうなかみの国造、下菟上しもつうなかみの国造、伊自牟いじむの国造、津島県直つしまのあがたのあたえ遠江とおつおうみの国造らの祖先である。】
 次に天津日子根命あまつひこねのみことは、凡川内おおしこうちの国造 額田部湯坐連ぬかたべのゆえのむらじ茨木うばらきの国造、倭田中直やまとのたなかのあたえ山代やましろの国造、馬来田うまぐたの国造、道尻岐閇みちのしりのきへの国造、周芳すおうの国造、倭淹知造やまとのあむちのみやつこ高市県主たけちのあがたぬし、 蒲生稲寸かもうのいなき三枝部造さきくさべのみやつこらの祖先である。】

クリックで訓読文

かれ、此の後にれませる五柱いつはしらの子の中に、天菩比命あめのほひのみことの子、建比良鳥命たけひらとりのみこと【此は出雲国造いづものくにのみやつこ无邪志むざしの国造、上菟上かみつうなかみの国造、下菟上しもつうなかみの国造、伊自牟いじむの国造、津島県直つしまのあがたのあたへ遠江とほつあふみの国造おやなり。】 次に天津日子根命あまつひこねのみことは、凡川内おほしかふちの国造 額田部湯坐連ぬかたべのゆゑのむらじ茨木うばらきの国造、倭田中直やまとのたなかのあたへ山代やましろの国造、馬来田うまぐたの国造、道尻岐閇みちのしりのきへの国造、周芳すはうの国造、倭淹知造やまとのあむちのみやつこ高市県主たけちのあがたぬし、 蒲生稲寸かまふのいなき三枝部造さきくさべのみやつこらの祖なり。】

クリックで原漢文

故此後所生五柱子之中、天菩比命之子建比良鳥命、【此出雲國造、无邪志國造、上菟上國造、下菟上國造、伊自牟國造、津島縣直、遠江國造等之祖也。】 次天津日子根命者、【凡川内國造、額田部湯坐連、茨木國造、倭田中直、山代國造、馬來田國造、道尻岐閇國造、周芳國造、倭淹知造、高市縣主、蒲生稻寸、三枝部造等之祖也。】

底本では、1茨は無し

クリックで言葉

《言葉》

  • 【建比良鳥命】たけひらとりのみこと 天菩比命の子、出雲国造らの祖神
  • 【国造】くにのみやつこ 「国の御家つ子」、大化以前に朝廷に服属した地方首長が任命された
  • 【直】あたへ 姓(かばね)の一つ、国造や県主に多く与えられた
  • 【連】むらじ 姓の一つ、大和王権では臣に並ぶ最高位とされた
  • 【造】みやつこ 「御家つ子」、朝廷に仕える人々の意、品部(ともべ)を率いた
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(前の記事の続きです。前記事は1.5.7 天菩比命・天津日子根命の系譜(2)です。)

以上は、建比良鳥を祖神とする氏族でした。以下は、天津彦根命を祖神とする氏族の紹介です。

凡川内国造

凡川内国造は、凡川内は、おほしかふち、と訓みます。大河内、凡河内とも書きます。河内・摂津(今の大阪府)に本拠を構える国造です。

もともと直(あたへ)の姓でしたが、天武十二年に連(むらじ、八色の姓で七番目)、十四年に忌寸(いみき、同じく四番目)の姓(かばね)を与えられました。書紀本文では

天津彦根命。是凡川内直・山代直等が祖なり。

とあり、新撰姓氏録の河内・摂津には国造・忌寸として掲載されています。安閑紀元年の条に、

天皇が皇后のために屯倉を設置しようとして、勅使を遣わせて、良田を選ばせることにした。勅使は、勅を奉じて大河内直味張(あぢはり)に、「肥沃な良い田を奉じるように」と言うと、味張は土地を惜しみ、「この田は労多くして収穫は少ない」と言って勅使を欺こうとしたが、結局罰せられ、国造の地位を追われそうになった。そこで丁(よほろ、人的労働力)を毎年提供することで許しを請うた。

という説話があります。これは无邪志・伊自牟国造による屯倉の起源説話と同じパターンのものです。これら三つの説話は安閑紀の初めにまとめて書かれているもので、そこに出てくる无邪志・伊自牟・凡川内国造が古事記のこの段でもまとめて出てくるのは偶然ではなさそうです。

ところで、書紀本文の「天穂日命 是出雲臣・土師連等が祖なり」に出てくる土師連は、姓氏録(右京)では、

土師宿禰。天穂日命十二世孫可美乾飯根命之後也。

となっており、さらに姓氏録(摂津)を見ると、

凡河内忌寸。天穂日命十三世孫可美乾飯根命之後也。

となっています。つまり、凡河内国造は土師連と共通の祖先(天穂日命〜可美乾飯根命)を持つとされており、古事記の所伝(天津彦根命)と矛盾します。

これについて、宣長は「伝への混(まがひ)つるなり」としていますが、記注釈は「天穂日の子の建比良鳥と天津日子根は天穂日の分化したもの」とし、「建比良鳥を祖とするか、天津日子根を祖とするかは大した相違ではなく、要するにそれはともに天穂日から出たことを意味する」としています。

つまり、この段においては、天菩比命の子の建比良鳥の末裔と、天津日子根命の末裔の二つの氏族の流れに分けて書かれてはいるが、実際はここに記された各氏族は出雲国造を代表として、天菩比命の末裔として一括りにされるべきものであるということです。

額田部湯坐連

額田部湯坐連は、ぬかたべのゆゑのむらじ、と読みます。書紀一書に、

天津彦根命。此茨城国造・額田部連等の遠祖なり。(神代紀・第七段・一書第三)

とあります。また、新撰姓氏録(左京神別)に、

額田部湯坐連。天津彦根命の子、明立(あけたつ)天御影命の後なり。允恭天皇の御世、薩摩国に遣はされて、隼人を平(ことむ)け、復奏(かへりごとまを)す日、御馬一匹を獻(たてまつ)る、額(ぬか)に町形(まちがた)の迴毛(つむじ)有り、天皇嘉(よろこ)びたまひて、額田部の姓を賜ひき。

とあります。町形とは、町(田の区画)の形、という意味です。

記注釈は「おそらく額田部は田部(筆者注:大和王権の直轄地である屯倉で耕作に従事する人々)の一種で、額田部連はその伴造であり、その族の湯坐(貴人の子の産育)の事に任じた家が額田部湯坐連なのであろう」としています。

孝徳紀大化五年三月の条に、蘇我倉山田石川麻呂が讒言により誅せられた際に、これに連座して田口臣筑紫・耳梨道徳・高田醜雄とともに額田部湯坐連(欠名)らが殺された、という記事が見えます。

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茨木国造

茨木国造は、茨木は、うばらき、と訓みます。書紀一書に、

天津彦根命。此茨城国造・額田部連等の遠祖なり。(神代紀・第七段・一書第三)

また国造本紀には、

茨城国造。軽島豊明朝御世(応神朝)、天津彦根命の孫、筑紫刀禰を国造に定め賜ふ。

とあります。ところで、古事記のこの部分は、底本はじめ諸本には「木国造」とあり、「茨」がありませんが、宣長の説に従い、補うことにしました。

通常「木国」と言えば「紀国」を指しますが、紀伊国造については、姓氏録に「紀直。神魂命五世孫天道根命之後也」(河内)、「紀直。神魂命子御食持命之後也」(和泉)とあり、その祖神は神魂命(カミムスビ)とされています。

茨木国造については、さらに、国造本紀に、

師長国造。志賀高穴穂朝(成務朝)御世、茨城国造祖建許呂(たけころの)命の児、意富鷺意彌命を国造に定め賜ふ。

須恵国造。志賀高穴穂朝、茨城国造祖建許侶命の児、大布日意彌命を国造に定め賜ふ。

馬来田国造。志賀高穴穂朝御世、茨城国造祖建許呂命の児、深河意彌命を国造に定め賜ふ。

とあり、この茨木国造の祖とされるタケコロノ命は常陸国風土記の茨城郡条に、

茨城国造が初祖、多祁許呂命は息長帯比売(おきながたらしひめ、神功皇后のこと)天皇の朝(みかど)に仕へて、品太(ほむだ、応神天皇のこと)天皇の誕(あ)れましし時までに至れり。多祁許呂命に子八人あり。中の男、筑波使主(つくはおみ)は、茨城郡の湯坐連らの初祖なり。

と伝わっています。また新撰氏姓録に、

高市県主。天津彦根命十四世孫建許呂命之後也。(和泉)

奄智造。同神(筆者注:天津彦根命)十四世孫建凝命之後也。(大和国神別)

とあり、この段に一緒に出てくる馬来田国造、高市県主、倭淹知造(後述)もタケコロノ命を共通の祖としていることが分かり、ここが木(紀)国造ではなく、茨木国造であることは確実だと考えられます。

その一方で、常陸国風土記の筑波郡の条に、

古老の曰へらく、筑波の県は、古(いにしへ)、紀(き)の国と謂ひき。美万貴の天皇(崇神天皇)のみ世、采女臣の友屬(ともがら)、筑命(つくはのみこと)を紀の国造に遣はしき。云々

とあり、この「紀」というのは「城柵」(き)の意味で、大系本風土記は「朝廷に帰服しない東国の地方に対する城塞となる国の意であろう」と説明しています。また、この筑波郡は同条の紹介に「東は茨城郡」とあり、この二郡は隣接していることが分かり、ここで「木国造」としたのはあながち脱落とも言えないかもしれません。つまり、紀伊の国造ではなく、筑波郡の古名である「紀」の国造の意味である可能性はあります。

倭田中直

倭田中直は、やまとのたなかのあたへ、と読みます。

宣長は「高市郡にも添下郡にも、今田中村あり、此の内なるべし」と言っています。高市郡田中村・添下郡田中村はもう存在しませんが、その遺地はそれぞれ奈良県の橿原市畝傍・大和郡山市片桐あたりになります。

舒明紀八年に出てくる「田中宮」は、高市郡の方の田中にあったとされます。また、三代実録の巻十・十四に出てくる「田中神」(大和国)は、この地を指すのかもしれません。

歴史の中に埋もれてしまった氏族のようで、宣長は「此姓のことは、他書に見あたらず」と述べています。

山代国造

山代国造は、山代国は現在の京都府南部にあたります。山代(やましろ)について、宣長は、「名義は、書紀に山背と書る字の意なるべし、此の国は、大和の国の北の方の山の後なればなり」と説明しています。書紀本文では、

天津彦根命。是凡川内直・山代直等が祖なり。(神代紀・第七段・一書第三)

とあり、もともと直(あたへ)でしたが、凡川内国造と共に、天武十二年に連を、十四年に忌寸の姓を賜わっています。新撰姓氏録には、

山背忌寸。天都比古禰命子天麻比止都禰(あまのまひとつね)命之後也。(山城神別)

国造本紀には、

天目一(あまのまひとつ)命、為山代国造、即山代直祖。

とあります。このアマノマヒトツ命は、鍛冶の神とされており、古語拾遺の天岩屋戸の段に「天目一箇神をして雑の刀・斧及鉄の鐸を作らしむ」、書紀の一書に「天目一箇神を作金者(かなだくみ、鍛冶のこと)とす」とあります。

なお、一つ目の鍛冶の神は、他にギリシャ神話のキュクロプス(サイクロプス)がよく知られています。鍛冶の神が一つ目であることについては、鍛冶が鉄の温度を見るために、片目をつぶってその色を見たことや、それに伴ってしばしば片目を失明したことによるとする説があります。

馬来田国造

馬来田国造は、馬来田は、うまぐた、と訓みます。倭名抄に「上總国 望 末宇太(まうた)」とあります。現在の千葉県木更津市あたりです。万葉集に、

馬来田の(宇麻具多能) 嶺(ね)ろの篠葉(ささは)の 露霜の 濡れてわ来なば 汝は恋ふばそも(十四・三三八二)

馬来田の 嶺ろに隠り居 斯くだにも 国の遠かば 汝が目欲(ほ)りせむ(十四・三三八三)

とあります。また天武紀元年の条に「大伴連馬来田」、十二年の条に「大伴連望多(まうた)」と見えることから、もともと「うまぐた」だったのが「まうた」に変化していったものと考えられます。

茨木国造の項で見たように、国造本紀に「馬来田国造。志賀高穴穗朝(成務朝)御世、茨城国造祖建許呂命の児、深河意彌命を国造に定め賜ふ」とあり、この段に出てくる茨木国造・馬来田国造・高市県主・倭淹知造はすべて同じ人物(タケコロノ命)を祖としています。

1.5.7 天菩比命・天津日子根命の系譜(4)に続きます。)