そして、この、後に生まれた五柱の子のうちの天菩比命の子である、建比良鳥命、【これは出雲国造、无邪志国造、上菟上国造、下菟上国造、伊自牟国造、津島県直、遠江国造らの祖先である。】
次に天津日子根命は、【凡川内国造 額田部湯坐連、茨木国造、倭田中直、山代国造、馬来田国造、道尻岐閇国造、周芳国造、倭淹知造、高市県主、 蒲生稲寸、三枝部造らの祖先である。】
(前の記事の続きです。前記事は1.5.7 天菩比命・天津日子根命の系譜(1)です。)
上菟上国造
上菟上国造は、上菟上は、かみつうなかみ、と訓みます。倭名抄に「上總(かみつふさ)国 海上 宇奈加美(うなかみ)」とあります。上総国の海上郡のことです。上総国は現在の千葉県中部にあたります。万葉集に、
夏麻引(なつそび)く 海上潟(うなかみがた)の 沖つ渚(す)に 船はとどめむ さ夜更けにけり(十四・三三四八)
夏麻引く 海上潟の 沖つ洲に 鳥はすだけど 君は音もせず(七・一一七六)
と詠まれています。また、国造本紀には、
上海上国造。志賀高穴穂朝(成務朝)。天穂日命八世孫忍立化多比命を国造に定め賜ふ。
とあります。
下菟上国造
下菟上国造は、下菟上は、しもつうなかみ、と訓みます。倭名抄に「下總(しもつふさ)国 海上 宇奈加美(うなかみ)」とあります。下総国の海上郡のことです。下総国は現在の千葉県北部にあたります。
上総・下総どちらにも海上郡があり、上総国のものは市原市(東京湾沿い)、下総国のものは銚子・香取・旭・匝瑳市(利根川中・下流域周辺)にあたります。万葉集に、
「・・・海上の その津を指して 君が漕ぎ行かば」(九・一七八〇)
と詠まれています。国造本紀には、
下海上国造。軽島豊明朝御世(応神朝)。上海上国造祖孫久都伎(くつき)直を国造に定め賜ふ。
とあり、上菟上国造から分かれた一族とされています。また、万葉集の下総国の防人の歌に、
暁(あかとき)の かはたれ時に 島陰(かぎ)を 漕ぎにし船の たづき知らずも(二十・四三八四)
とあり、これは歌の左注によると、助丁(すけのよぼろ)である海上郡の海上国造、他田日奉直得大理(をさだのひまつりのあたへとこたり)という人物の手になるものとされています。
これについては他に、続日本紀巻三十八に「海上国造他田日奉直徳刀自(とことじ)」、三代実録巻四十七に「下総国海上郡大領外正六位上海上国造他田日奉直春岳」の名が見えます。
他田(をさだ)は敏達天皇(都は他田宮)にちなむもので、もともとはこの敏達天皇の部民(べのたみ、天皇の身の周りの世話をする人々)の養育や徴発を担当した人々であったと考えられます。
伊自牟国造
伊自牟国造は、伊自牟は、いじむ、と読みます。倭名抄に「上總国 夷 伊志美(いじみ)」とあります。現在の千葉県夷隅(いすみ)郡にあたります。国造本紀に、
伊甚(いじみ)国造。志賀高穴穂朝御世(成務朝)。安房国造祖伊許保止(いこほと)命孫伊己侶止(いころと)直を国造に定め賜ふ。
とあります。安閑紀元年の条に、
膳臣(かしはでのおみ)大麻呂が勅を受け、使者を伊甚に遣わせて、珠(真珠)を求めさせた。伊甚国造らは、都に参上するのが遅く、期限までに献上することができなかった。大麻呂は、大いに怒り、国造らを捕えて縛り、理由を問いただした。国造稚子直(わくごのあたへ)らは恐れて後宮(きさきのみや)の寝殿に逃げ隠れた。春日皇后はそのことを知らず、びっくりして卒倒した。稚子直らは、さらに闖入罪にも問われ、重い咎(とが)を科せられた。彼らは謹んで、皇后専用の伊甚屯倉を献上し、その罪を償うことを申し出た。
とあり、これを伊甚屯倉設置の由来としています。
これについては、三代実録貞観九年四月二十日に「上總国夷郡人春部直(かすがべのあたへ)黒主売(くろぬしめ)」の名が見えることから、実際に春日皇后の名代部がイジミ郡にあったと考えられ、そこから上のような屯倉設置の説話が生まれたものと解することができます。
津島県直
津島県直は、つしまのあがたのあたへ、と読みます。倭名抄に「対馬島 上縣 加無津阿加多(かむつあがた) 下縣」とあります。現在の馬島 上縣 加無津阿加多(かむつあがた) 下縣」とあります。現在の対馬にあたります。国造本紀に、
津島県直。橿原朝(神武)。高魂尊(たかみむすひのみこと)五世孫建彌己己(たけここ)命を改て直(あたへ)と為す
とあります。成務記に、
大国小国の国造を定め賜ひ、亦国国の堺、及大県小県の県主を定め賜ひき。
とあり、県主(あがたぬし)は、国造と並ぶ、地方を統治する首長の姓(かばね)であることが分かります。なお、県については、これを国の下位の行政区分とする説や、国と同格のものだったとする説がありますが、はっきりしたことは分からないようです。
県主制は国造制よりも古くから存在していたと考えられ、また、朝廷との結びつきが緊密で、祭祀性の強い職能であったようです。実際、顕宗紀の
壹伎県主の先祖押見宿禰が祠に侍ふ。(三年二月条)
日神、人に著(かか)りて、阿閇臣事代(あへのおみことしろ)に謂(かた)りて曰はく、「磐余(いはれ)の田を以て、我が祖高皇産靈に獻(たてまつ)れ」とのたまふ。事代、便(すなは)ち奏す。神の乞の依(まま)に田十四町を獻る。対馬下県直、祠(まつり)に侍(つか)ふ。(三年四月条)
といった記事にも、そのことがうかがえます。その一方で、三代実録天安二年十二月八日の条の
対馬嶋下県郡擬大領外少初位下直氏成と、上県郡擬少領無位直仁徳らが、部内の百姓十七人を率いて兵を起こし、守(国司)正七位下立野連正峰及び従者榎本成岑らを射殺した。
という記事に見えるように、津島県直は国造と同じく地方を支配する豪族であって、祭祀や朝廷への奉仕一辺倒だったわけではないことも事実です。
遠江国造
遠江国造は、遠江は、とほつあふみ、と訓みます。現在の静岡県西部にあたります。
「あふみ」は「あはうみ」(淡海)で、都に近い方の淡水湖である「近つ淡海」(琵琶湖)に対して「遠つ淡海」(浜名湖)がそのまま国名になったものです。ちなみに、「近つ淡海」は「近江」と書かれるようになりましたが、こちらは単に「あふみ」(淡海)と呼ばれています。国造本紀には、
遠淡海国造。志賀高穴穂朝(成務)。物部連の祖伊香色雄(いかがしこを)命の児、印岐美(いきみ)命を以て国造に定め賜ふ。
とあり、記の伝承とは違っています。
(1.5.7 天菩比命・天津日子根命の系譜(3)に続きます。)