すると高天原はすっかり暗くなり、葦原中国もすべて闇になった。こうしてずっと夜が続いた。そして大勢の神々の騒ぐ声は夏の蠅のように充満し、あらゆる災いがことごとく起こった。そこで八百万の神々が、天の安の河の河原に集まり、高御産巣日神の子、思金神に考えさせて、常世の長鳴鳥を集めて鳴かせ、天の安の河の川上にある堅い岩を取り、天の金山の鉄を採って、鍛冶職人の天津麻羅を捜して、伊斯許理度売命に命じて鏡を作らせ、玉祖命に命じて八尺の勾玉をたくさん長い緒に通して作った玉飾りを作らせ、天児屋命、布刀玉命を呼んで、天の香山の雄鹿の肩の骨を抜き取り、天の香山のうわみず桜の木を取ってその骨を灼いて占わせ、天の香山の枝葉の茂った榊を根こそぎ掘り起こしてきて、上の枝には八尺の勾玉をたくさん長い緒に通して作った玉飾りを取り付け、中の枝には八尺鏡を掛け、下の枝には楮の白い幣帛と麻の青い幣帛を垂れかけ、これらさまざまな物は、布刀玉命が神聖な御幣として捧げ持ち、天児屋命は神聖な祝詞を唱えて寿ぎ、天手力男神は戸の脇に隠れて立ち、天宇受売命は天の香山の日蔭鬘を襷にかけ、天の真拆葛を髪飾りとして、天の香山の笹の葉を束ねて手に持ち、天の石屋戸の前に桶を伏せてこれを踏み鳴らし、神がかりして乳房を掻き出し、裳の紐を女陰まで押し垂らした。すると、高天原が鳴動するばかりに、八百万の神々が一斉にどっと笑った。
(前の記事の続きです。前記事は1.6.2 石屋戸ごもり(4)です。)
白丹寸手・青丹寸手
白丹寸手・青丹寸手は、しらにきて・あをにきて、と読みます。書紀には「白和幣・青和幣」、訓注に「和幣、此云尼枳底(にきて)」とあります。「白にきて」は木綿(ゆう)、「青にきて」は麻苧(まお)で作った幣帛です。
木綿とは梶または楮(こうぞ)の樹皮の繊維を細かく裂いて作った糸で白く、麻苧とは麻の繊維を材料とした糸で青み(緑)がかっていることによります。
宣長は「にきて」を「にきたへ」(和栲)の約まったものとしています。「にき」(和)は素材が柔らかいことを言います。「たへ」(栲)とは、梶・楮・麻などから採った繊維や、それで織った布を指します。この場合は、「取り垂(し)でて」とあることから、布ではなく、糸や緒の状態のものと解することになります。
「にきたへ」に対する言葉は「あらたへ」(荒栲)です。「あら」(荒)は目の粗いことを意味します。
一方、時代別国語大辞典は、「にきて」の「て」は「〜なるもの」の意味の接尾辞、「にき」は素材の柔らかさではなく、神を安める意の一種のほめ言葉であろう(それゆえ、ニキテは対になるアラ〜の形をもたない)、としており、全集記もこの説に従っています。
取垂
取垂は、とりしで、と読みます。「しづ」(垂づ)は他動詞、「しだる」(垂る)は自動詞です。神社の注連縄や御幣に垂らされている「しで」(紙垂・四手)はこの「垂づ」の連用形の名詞化です。大系本万葉集は「シデは、シヅ(下・賤)・シヅム・シダルなどと同根か」としています。万葉集に、
後(おく)れにし 人を偲はく 四泥(しで)の崎 木綿取り垂でて さきくとそ思ふ (六・一〇三一)、
竹珠(たかだま)を繁(しじ)に貫き垂り 斎瓮(いはひべ)に 木綿取り垂でて (九・一七九〇)
などがあります。
布刀御幣
布刀御幣は、ふとみてぐら、と読みます。
「ふと」(布刀)は「太占」「太祝詞」の「太」で、神事に関わる事物に冠する称え辞です。種々の祝詞に出てくる、宇豆乃(うづの)幣帛(みてぐら)・大幣帛・伊都(いつ)幣・安幣帛乃足(たる)幣帛、などの「宇豆」(珍)、「大」、「伊都」(厳)、「安」、「足」も同様です。
「みてぐら」の意味ですが、「御手座」「御手向(みたむけ)座」「充(みて)座」「御栲(みたへ)座」など、さまざまな説が行われています。
まず、「くら」について、宣長は「神に献る物及(また)人に贈りなどする物」としていますが、下の段に出てくる千位置戸(ちくらおきど)に見えるように、クラは「供物を置く台」という意味です。これについて、記注釈は「クラは物をのせる台、ひいては供物の意」、つまり、もと台を指していたのがその上の供物をも意味するようになったと説明しています。
「みて」については、「御手」、「御手向(みたむけ)の約」、「万の物を置座に充(みて)て奉る(充座)」、「御栲(たへ)の約」、など様々な説があります。宣長は、「此(ここ)に取持てとある如く、手に取持て献る意」であるとして「御手」または「御手向」説を採り、師の賀茂真淵の「充座」説を、「賢木の枝に着(つけ)たるにはかなはず」として退けています。
また、「御栲(たへ)座」説は、上の「白にきて・青にきて」の「て」を「栲」(たへ)の約とする説に通じます。この説の論点としては、
「くら」は・・・物を載せたり、物を附ける台となるものを称する語である・・・榊の枝に和幣(にぎて)を附けたものを「みてぐら」といっているから、和幣を附ける木もまた「くら」である。(中略)「みてぐら」の実質は、祝詞によれば、御酒・稲穂を始め、河海山野に生ずる各種の産物を尽くすのであるが、形式的のものでかつ欠くべからざるものは、木の枝に帛を懸けたものであった・・・鏡や玉は和幣よりも貴重なものに相違ないけれども、「みてぐら」の形式としては、和幣が主要なるものであったと考えられる。後世一般の幣帛が、単に榊の枝に和幣を懸けたものとなり、なお一層略式としては、和幣の代わりに紙を切って附けているのを見ても、和幣を附けることが、幣帛本来の形式として、必要なものであったことは明白である。(次田潤「祝詞新講」)
というものがあります。つまり、幣帛のもっとも形式的で簡略化されたものにおいても、ニキテだけは紙垂の形で残っており、それを附けるクラが榊であるとすると、幣帛においては「たへ」こそが主要なものであるはずで、したがって「みてぐら」の「て」はニキテの場合と同様「たへ」(栲)の約であるはずだ、ということです。
一方、記注釈は、宣長の、
又は後に天皇の御手づから神に献りたまふ物を、御手久良(みてぐら)といひならへる、其名を始めへもめぐらして此の段にも然云るにもあるべし。
という一案を受け継ぎ、実際に「みてぐら」の使用例はほとんどすべて天皇に関わっており、普通人の場合には「ぬさ」(幣)と言ったという事実を挙げ、これを「御手座」すなわち「天皇が御手づから神に献上する供物」の意であるとしています。
上枝・中枝・下枝
上枝・中枝・下枝は、ほつえ・なかつえ・しづえ、と読みます。応神記の御歌や雄略記の三重(みへのうねべ)の歌に「本都延、那迦(加)都延、志豆延」とあるのによります。
サカキの上枝・中枝・下枝に玉・鏡・幣(または剣)を掛けるというのは、神を祭ったり、貴人を迎えたりするときの形式だったようで、仲哀紀八年正月の条に、
岡県主の祖熊鰐(わに)、天皇の車駕(みゆき)を聞(うけたまは)りて、予め五百枝の賢木を抜じ取りて、九尋の船の舳にたてて、上枝には白銅鏡を掛け、中枝には十握剣を掛け、下枝には八尺瓊を掛けて、周芳(すは)の沙麼(さば)の浦に参迎ふ。
筑紫伊覩県主(つくしのいとのあがたぬし)の祖五十迹手(いとて)、天皇の行(いでま)すを聞りて、五百枝賢木を抜じ取りて、船の舳艫(ともへ)に立てて、上枝には八尺瓊を掛け、中枝には白銅鏡を掛け、下枝には十握剣を掛けて、穴門の引嶋(ひけしま)に参迎へて獻(たてまつ)る。
また、景行紀十二年の条に神夏磯媛(かむなつそひめ)が、
天皇の使者の至(まうく)ることを聆(き)きて、則ち磯津山(しつのやま)の賢木(さかき)を抜りて、上枝には八握剣を挂(とりか)け、中枝には八咫鏡を挂け、下枝には八尺瓊を挂け、亦(また)素幡(しらはた)を船の舳に樹(た)てて、参向(まうでき)て、
とあります。これらの故事について宣長は、
これら此段の故事に依る礼儀(いやごと)なり、然るに和幣を略きて剣あるは、朝家(みかど)の三種の神宝にならへるならむ。
と解釈しています。宣長はさらに、「さて中昔までも、人に物を贈るに、多く木草の枝につけたりしも、此の段の榊の枝につけたる故事より起れることなるべし」と付け加えています。
(1.6.2 石屋戸ごもり(6)に続きます。)