そこで速須佐之男命は天照大御神に、「私の心は清く明るいから、私の生んだ子は女子だった。これによって言えば、当然私の勝ちだ」と言って、勝ちに乗じて天照大御神の耕作する田の畔(あぜ)を壊し、灌漑用の溝を埋め、また大御神が新嘗の新穀を食べる御殿に糞をしてまき散らした。
しかし、それでも天照大御神はそれをとがめだてせずに、「糞のようなものは、酔ってへどを吐き散らそうとして、我が弟の命はそうしたのでしょう。また、田の畔を壊して灌漑用の溝を埋めたのは、土地がもったいないと思って、我が弟の命はそうしたのでしょう」と善い方に言い直したものの、なおその悪い行いは止まず、ますますひどくなった。
天照大御神が、神聖な機屋にいて、神に献上する御衣を機織り女たちに織らせていたときに、速須佐之男命がその機屋の棟に穴をあけて、斑入りの馬を逆剥ぎにして落とし入れたところ、機織り女はこれを見て驚き、梭で女陰を突いて死んでしまった。そして、天照大御神はそれを見て恐れて、天の石屋の戸を閉じて中にこもった。
(前の記事の続きです。前記事は1.6.1 須佐之男命の勝さび(1)です。)
大嘗
大嘗は、おほにへ、と読みます。書紀本文には「新嘗」(にひなへ)とあります。他に、にひなひ、にはなひ、にはのあひ、にはなへ、にひなめ、にふなみ、など様々な呼び方があります。
新嘗とは、毎年秋に新穀を神に供し、天皇が神と共にこれを食べてその年の収穫に感謝する行事です。天皇が即位して初めて行う新嘗を、特に大嘗と呼びます。
爾雅(中国最古の類義語辞典)の釋天に「秋祭曰嘗」(秋祭を嘗と曰(い)ふ)とあるように、中国で秋祭りのことを「嘗」と言っていたのを借りたものです。
新嘗は宮中のみならず、民間の祭りでもありました。万葉集の東歌に、
鳰鳥(にほどり)の 葛飾(かづしか)早稲(わせ)を 饗(にへ)すとも その愛(かな)しきを 外(と)に立てめやも(十四・三三八六)
(葛飾の早稲で新嘗を行っていても、あの愛しい人を外に立たせておけようか)
誰(たれ)そこの 屋の戸押そぶる 新嘗(にふなみ)に わが背を遣りて 斎(いは)ふこの戸を(十四・三四六〇)
(誰が家の戸をガタガタ押し動かすのですか、新嘗のために我が夫を外に出して物忌みしているこの家の戸を)
の二首があります。
新嘗の祭の日は、新穀を供えて神を家に迎えますが、そのとき男子はすべて家の外に出され、戸は閉め切られてしまい、残った女子は厳重に斎戒することとされました。なお、後の歌の「にふなみ」(布奈未)は、東国方言とも、「み」(未)は「め」(米)の誤りであるとも言われています。
また、常陸国風土記の筑波郡の条に、神祖(みおや)の尊が、福慈(ふじ)の岳(富士山)へ行って宿を請うたら、福慈の神は、
「新粟(わせ)の新嘗して、家内諱忌(ものいみ)せり。今日の間は冀(ねが)はくは許し堪(あ)へじ」
と断ったのに対し、筑波の岳で宿を請うたら、筑波の神は、
「今夜は新粟嘗(にひなへ)すれども、敢へて尊旨(みこと)に奉らずはあらじ」
と言って歓待した、それで神祖の尊は福慈の岳は常に雪が降って人が登れないようにし、一方筑波の岳はいつも多くの人が集まって賑やかになるようにした、という説話があります。
「にひなへ」の語源についてはいくつかの説があります。宣長は「にひのあへ」(新の饗)が約まったものだとします。「にひのあへ」とは「新稲(にひしね)を以て饗(あへ)するを云ふ名なり」と説明し、さらに「おほにへ」の「爾閇(にへ)は新饗(にひあへ)の約言(つづめこと)なるを知るべし」としています。
一方、記注釈では、「にへ」は「贄」(神や朝廷に献上する食べ物、いけにえの「にえ」)で、「にひなへ・おほにへ」は「新贄・大贄」であろう、としています。
また、大系紀は、「にはなひ」というのは、平安時代における普通の呼び方で、「場(には)の合ひ」(神聖な場での会合)の意に取ったことによると説明しています。「には」(庭・場)は神事や農事や軍事など、物事が行われる場所をいいます。
なお、現在では天皇が即位して最初のものを大嘗祭、毎年行われるものを新嘗祭と言いますが、もともとは区別がなかったようで、例えば清寧紀二年十一月条に「大嘗」とあるのと同じものが、次の顯宗即位前紀には「新嘗」と記されていたり、用明紀や皇極紀では践祚大嘗祭にあたるものが「新嘗」と書かれています。また、養老令の神祇令ではどちらも「大嘗」と呼ばれています。区別されるようになったのは、天武天皇の時代からだと言われています。
聞看
聞看は、きこしめす、と読みます。飲む・食べるの尊敬表現で、召し上がる、お食べになる、お飲みになる、という意味です。
皇極紀元年十一月の条に「天皇新嘗御(きこしめ)す」、応神記に「天皇豊明(とよあかり)聞し看しし日に」、大嘗祭祝詞に「皇御孫命の大嘗聞食(きこしめさ)む為故に」、続日本紀巻三十の称徳天皇の宣命に「今日は新嘗の猶良比(なほらひ)の豊の明(あかり)聞こしめす日に在り」など多くの用例があります。
なお、ここにでてきた「豊明(とよのあかり)」とは、宮中で催される宴会のことです。「とよ」は豊かさを称える美称、「あかり」は酒で顔が赤らむことです。
「きこしめす」の他の用法としては、万葉集の柿本人麻呂の歌、
やすみしし わご大君の 聞し食(め)す 天の下に(一・三六)
やすみしし わご大君の きこしめす 背面(そとも)の国の(二・一九九)
また大伴家持の歌、
桜花 今盛(さかり)なり 難波の海 押し照る宮に 聞しめすなへ(二十・四三六一)
などがあり、この場合は「統治する」という意味ですが、記注釈では、記紀においては「統治する」の意味で「きこしめす」が使われた例はなく、これは詩人柿本人麻呂に始まる新しい用法ではないか、としています。
なお、宣長は「大嘗聞こし看す」の意味について、「古へのは天皇の御自ら食(きこしめ)すことを主(むね)と云り、中つ巻明(あきら)の宮の段に、聞看豊明(注:上の応神記の記事)とあるも同じ言なり、【此の大嘗を、ただ神に供奉(まつり)たまふことにのみ説(とき)なすは、古への意にたがへり】」と述べています。
屎麻理
屎麻理は、くそまり、と読みます。「まる」(放る)とは大小便をすることです。
現在でも長野・愛知や九州地方などに方言として残っているようです。小便のことを「ゆまり」(尿)と言いますが、これは「湯」+「まり」(まるの連用形の名詞化)の意です。また、男根を指す「まら」という言葉は、この「まる」が語源であるとする説があります。記紀以外の用例としては、
枳(からたち)の 棘原(うばら)刈り除(そ)け 倉立てむ 屎遠くまれ 櫛作る刀自(とじ)(万・十六・三八三二)
燕のまりおける糞を握り給へるなりけり。(竹取物語)
などが見えます。また、書紀には、
天照大神の新嘗(にひなへきこ)しめす時を見て、則ち陰(ひそか)に新宮(にひなへのみや)に放(くそま)る。(注:は屎の正字)(本文)
則ち新宮の御席(みまし)の下に、陰に自ら送糞(くそま)る。(一書第二)
とあります。一書の方では、さらにアマテラスがそれに気づかず、その排泄物の上に腰かけてしまうことになります。
新宮とあるように、この新嘗を行うために神殿が新築され、また神に奉仕する巫女は身を清め、厳重に斎戒することとされます。そのような神聖な場においてこのような汚らわしい行為を行うことは神への重大な冒涜であり、神功記や大祓祝詞に「屎戸」(くそへ)として、天つ罪の一つに数えられています。
(1.6.1 須佐之男命の勝さび(3)に続きます。)