そこで、二神はオノゴロ島に帰り降って、天の御柱を先ほどと同じように行きめぐった。そこで、イザナギが先に「あなにやし、えをとめを」(ああ、なんて素敵な女性なんだ)と言い、後からイザナミが「あなにやし、えをとこを」(ああ、なんて素敵な男性なの)と言った。
こう言い終えてから交わり、淡道之穂之狭別島を生んだ。
次に伊予之二名島を生んだ。この島は身体は一つだが顔が四つあり、それぞれの顔に名前がある。すなわち、
伊予国を愛比売といい、
讃岐国を飯依比古といい、
粟国を大宜都比売といい、
土左国を建依別という。
次に隠伎之三子島を生んだ。またの名は天之忍許呂別。
次に筑紫島を生んだ。この島もまた、身体は一つだが顔が四つあり、それぞれの顔に名前がある。すなわち、
筑紫国を白日別といい、
豊国を豊日別といい、
肥国を建日向日豊久士比泥別といい、
熊曾国を建日別という。
次に伊伎島を生んだ。またの名を天比登都柱という。
次に津島を生んだ。またの名を天之狭手依比売という。
次に佐度島を生んだ。
次に大倭豊秋津島を生んだ。またの名を天御虚空豊秋津根別という。
そして、この八つの島をまず生んだことから、この国を大八島国という。
さて、別天つ神の忠告を受けたイザナギ・イザナミは、ふたたびオノゴロ島に戻り、今度は男神であるイザナギの方から声をかけます。すると今度は成功し、次々と「健康な」子が生まれました。彼らは現在の日本列島の島々として生まれてきました。ここでは現代でもなじみの深い地名が多く出てきます。
淡道之穂之狭別島
淡道之穂之狭別島は、あはぢのほのさわけの島、と訓みます。「アハヂ」は「阿波道」つまり阿波国(徳島県)に通じる道であることから付けられたと考えられます(記伝・記注釈)。また、「ホノサ」は未詳ですが、「アハ」を穀物の「粟」とみて、その「穂の早(ホノサ)」(出始めの穂)で、初めに生まれた島を意味する(古事記伝)と考えることができるかもしれません。
「ワケ」は、特に日本書紀の景行天皇の条に頻出します。「ワケ」というのは、もともと古代の天皇や皇子の人名に使われていたものですが(例:景行天皇=オオタラシヒコオシロワケ)、同天皇の条では、「ワケ」の名を持つ皇子たちが、のちに各地に分封(領地を分け与えること)されて「水沼別」「火國別」(水沼、火國は地名)と呼ばれる世襲的な領主一族の祖となり、やがてその「ワケ」が領主としての一種のカバネ(称号)とされるようになった、という説話が語られています(皇子分封説話)。この説話によって、特に景行天皇の時代に、全国の広範囲にわたって朝廷の支配が浸透していったことが示されています。
もっとも、これは史実そのものと言うよりも、後世「ワケ」のカバネを持つ人々が、自らの出自を、過去の「ワケ」の名を持つ皇子に求めることで、皇室と系譜上のつながりを持たせようとしたものと考えられています。そして、この説話に現れる多くの「ワケ」の名を持つ「〜別」の始祖としての皇子は、そのために創り出されたもので、元々の史料(帝紀、旧辞など)には存在しなかったと考えられています。(大系紀補注)。
いずれにせよ、伊予之二名島や筑紫島に出てくる各国の「ワケ」という名前は、この説話の思想(皇子分封思想)が反映されていると見ることができます。
伊予之二名島
伊予之二名島は、いよのふたなの島、と訓みます。四国のことです。伊予とは今の愛媛県のことですが、筑紫(福岡県)という言葉で九州全体を表すように、伊予という言葉で四国全体を表しています。
大宝律令施行(701年)以前には、大宰(おほみこともち)・総領(令)(すべをさ・すぶるをさ)と呼ばれる、数か国にわたる広い地域を統治する地方行政長官が各地に置かれていました。筑紫大宰・吉備大宰(紀・天武八年)・周芳総令(紀・天武十四年)・伊予総領(紀・持統三年)などです。大宝律令により、筑紫大宰を残して他の大宰・総領はすべて廃止されました。
二名というのは、二並(ふたならび)のことで、この島の中に男女二組が並んで配置されていることからついたのであろうという説があります(古事記伝)。
身一而有面四 毎面有名
身一而有面四 毎面有名は、身一つにして面(おも)四つ有り。面毎に名有り、と訓読します。身体は一つで顔が四つあり、それぞれ名前がある、ということです。四国という一つの島に四つの国があり、それぞれに名前があることを表しています。イザナギ・イザナミの子として生まれたので、人のように身体があり、顔があるとしているようです。
伊予国、愛比売
伊予国、愛比売は、伊予の国は「えひめ」と呼ばれます。古代の伊予の国には伊予郡、温泉郡、越智郡などの郡があり、そのうちの伊予郡から伊予の国の名がついたと考えられます。延喜式神名帳の同郡の条に伊予神社、伊予豆比古命神社の名が見られます。
伊予郡という非常に狭い一地域から始まった名前が、伊予国一国を指すようになり、さらに四国全体をも言い表すようになりました。このように、狭い一地方の名前が、その周辺のより大きな地域を言い表すようになることはよくあり、他にも、次に出てくる肥国・筑紫・倭(やまと)など、多くの例があります。
愛比売は姉妹を意味する兄比売・弟比売(えひめ・おとひめ)の「エヒメ」で、ここでは長姉であるためにこう名付けられたと考えられます(古事記伝)。
なお、古くは同性のきょうだい間では年上を「エ」、年下を「オト」と呼び、異性のきょうだい間では年齢に関係なく女の方を「イモ」、男の方を「セ」と呼んだようです(大野晋氏による)。
讚岐国、飯依比古
讚岐国、飯依比古は、讃岐の国は「いひよりひこ」と呼ばれます。隣の大宜都比売と同じく、食べ物に関係のある名前だと考えられます。依はのちに出てくる「玉依毘売」(たまよりびめ)と同じで、霊が依りつく、依代(よりしろ)、などの依です。比古はウマシアシカビヒコヂのヒコと同じでヒ(霊的、超自然的な力)+コ(男子の意)です。
讃岐の国を称えた柿本人麻呂の歌が万葉集に残されています:
玉藻よし 讃岐の国は 国柄か 見れども飽かぬ 神柄か ここだ貴き 天地 日月とともに 満(た)りゆかむ 神の御面(みおも)と継(つ)ぎて来る 中の水門(みなと)ゆ 船浮けて わが漕ぎ来れば 時つ風 雲居に 吹くに、云々(二・二二〇)
「神の御面と継ぎて来る」とは、「神の御面として受け継いできた」という意味です。四国のそれぞれの国が顔を持つという、この伝承を踏まえた歌と考えられており、当時の知識人たちの間にもよく知られた言い伝えだったことがうかがえます。
粟国、大宜都比売
粟国、大宜都比売 粟(阿波)の国(徳島県)は「おほげつひめ」と呼ばれます。「ゲ」は「ケ」で、食べ物という意味です。粟の国という国名から付けられた名前だと考えられます。なお、こののちにも、イザナギ・イザナミは同じ名前の子を生みます。名前についてはまたそのときに触れます。
土左国、建依別
土左国、建依別は、「別」は淡道之穂之狭別島の「別」と同じです。さて、この四柱の神々ですが、考える組み合わせとしては、東から見た「大宜都比売と飯依比古(徳島と香川)」と西から見た「愛比売と建依別(愛媛と高知)」の二組と見るか、北から見た「愛比売と飯依比古(愛媛と香川)」と南から見た「大宜都比売と建依別(徳島と高知)」の二組と見るか、の二通りが考えられます。記伝はどちらとも断定せず、どちらも考えられるとしています。
隠伎之三子島、天之忍許呂別
隠伎之三子島、天之忍許呂別は、今の隠岐諸島です。有名な稲羽の素菟(いなばのしろうさぎ)の淤岐島(おきのしま)をこの島であるとする説があります。
隠岐諸島は島前(どうぜん)と島後(どうご)に分かれ、島前は知夫里島・西ノ島・中ノ島の三島からなります。三子島の名は、この三島に由来すると考えられます(古事記伝)。では島後はどうなるのでしょうか。
ここで、島前は三島合わせても島後一島よりも小さいため、島後を親、島前三島を子と見立てて三子の島と名付けたのだろうという説があります(大系記)。このように解釈すると、島前三島だけを指しているのではなく、三つ子の親子全体(隠岐諸島全体)を指して「三子島」としていると考えることができます。
「天の」は美称です。天の御柱、天の浮橋などと同じです。「忍」(オシ)は「大」(オホシ)(古事記伝)または「多」(オホシ)(大系)のつづまったもので、やはり美称です。「許呂」(コロ)はオノゴロ島と同じく、「凝る」(凝集する)の意です。日本書紀本文には「対馬島(つしま)、壹岐島(いきのしま)、及び処処(ところどころ)の小嶋は、皆是潮の凝りて成れるものなり」とあり、二神が生んだのものではなく、オノゴロ島と同じく潮が凝り固まってできたものとされています。
また、モンゴルの神話・伝承に、海洋の泡や潮から大地やあらゆるものが生まれたとするものがあり(大系紀補注)、島が大洋の潮や泡が凝り集まってできたとするパターンの伝承が、日本やその周辺の地域に分布していたことが分かります。
(1.3.1 国生み(2)に続きます。)