そこで二柱の神は相談して、「今私たちが生んだ子は良くない。やはり天つ神のもとに参って申し上げよう」と言って、すぐさま共に高天原に参上し、天津神の指示を求めた。そこで天津神たちはふとまにで占い、「女の方が先に言ったから良くないのだ。また戻って改めて言い直しなさい」と言った。
イザナギ・イザナミの二神の国生みの出だしは失敗でした。二神は相談します。そして、自分たちだけで解決策を探ることはせず、まず高天原に参上して天つ神たちに報告し、指示を仰ぐことにします。天つ神たちは報告を受け、布斗麻邇(ふとまに)と呼ばれる一種の占いによって解決策を見出そうとします。そして二神に「女の方が先に声をかけたのがよくなかった、またオノゴロ島に戻ってやり直せ」と伝えました。
請天神之命
請天神之命は、天神(あまつかみ)の命(みこと)を請ふ、と訓読します。イザナギ・イザナミの二神は、自分たちの最初の子たちができそこないだったことから、高天原の天つ神たちに伺いを立てることにしました。この天つ神は、二神に修理固成を命じた天つ神たちと同じ、五柱の別天つ神たちで、その中心にいるのは、やはり同じくタカミムスビであると考えられます。
国生みのときには、イザナギ・イザナミは別天つ神たちの指示に従うだけで、主体性が感じられません。自らの意志で国土を生み成そうと考え、アメノヌボコも自分たちで用意し、以下国を生むまですべて主体的に行動している日本書紀の本文の伝承とは対照的です。
古事記においては、修理固成はあくまで高天原の別天つ神(特にタカミムスビ)たちの事業であって、イザナギ・イザナミはその現場作業員に過ぎないかのような扱われ方です。しかし、その一方で、記述の視点はあくまでイザナギ・イザナミの二神に固定されており、天つ神たちはピンポイントでしか出てこないため、物語としてはやはりこの二神が主人公であると言えます。
布斗麻邇爾
布斗麻邇爾は、ふとまにに、と読みます。布斗麻邇(フトマニ)というのは占いの一種で、日本書紀では「太占」と書かれます。
フトは太祝詞(フトノリト)、宮柱太敷き立て(神殿の柱を褒め称える定型句)、などの「太」で、美称の一種ですが、特に神事に関連して使われる言葉のようです。マニは「随に(まにまに)=ままに」の意味で、あらわれた兆しの「まにまに」事を決めたことからついたのではないかとする説があります(全集記、記注釈)。
後で天石屋戸の段に「天の香山(かぐやま)の真男鹿(まをしか)の肩を内(うつ)抜きに抜きて、天の香山の天の波波迦(ははか)を取りて、占合(うら)へまかなはしめて」と出てきます。鹿の肩胛骨をハハカ(ウワミズザクラの木)を燃やした火であぶり、その裂け目を見て占った、という意味です。ここに言うフトマニもそのようなものだったと思われます。
しかし、もしそうだとすると、高天原には国生みの時点で、すでに鹿もウワミズザクラの木もあったことになります。読み進めれば分かりますが、山川草木や他の神々の誕生を特に描くこともなく、高天原には初めからこれらがあったかのように描かれています。地上世界においても、葦や人間の誕生を描写した記述は特に見当たりませんが、いつの間にか葦原が地上を覆い、青人草(あおひとくさ、人間のこと)がそこに住まっていることになっています。焦点が当てられているのは、もっぱら高天原の神々の行いとその周辺です。この点でも、イザナギ・イザナミによる山川草木や太陽や月の誕生が理路整然と述べられている日本書紀本文の記述とは対照的です。
このような記述の仕方から、古事記の筆録者にとっての興味の対象は、世界の成り立ちそのものというよりは、タカミムスビ(とのちのアマテラス)を頂点とする高天原の神々の系譜と事績だったということが見えてきます。
古事記は、それまでに伝わっていた「帝紀(天皇の系譜)」と「旧辞(歴史書)」のさまざまな異本(さまざまなバージョンの写本、写し間違えや改ざんが多かった)をもとに、本来の伝承や記録を復元することが本来の目的だったので、そのような記述の仕方になるのは必然だったと言えるのかもしれません(こちらも参照)。
また、古事記の記述のスタイルは、日本書紀のそれと比べると、非常に物語的でドラマティックなものです。おそらく、古事記の筆録者は、この書物を日本書紀のような客観性のある歴史書・史料としてではなく、神々や天皇とそれに連なる人々の物語・ドラマとして描きたかったのではないでしょうか。