天と地が初めて現れたときに、高天原たかまのはらに成った神の名は、天之御中主あめのみなかぬしの神、次に高御産巣日たかみむすびの神、次に神産巣日かみむすびの神。この三柱みはしらの神は、いずれも独神ひとりがみとして成り、すぐに姿を隠した。

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天地初発に見る日本人の世界観

これが古事記に描かれた日本神話の冒頭部です。宇宙や世界の創生については何も語っていません。天と地があり、そこに高天原がある。神たちが次々と現れ、そして消える。天と地がそもそもどうやってできたのか、それらができる以前はどうなっていたのか、そのことについては一切言及していません。

古事記においては、宇宙や世界は「誰かが造ったり生み出したりするもの」ではなく、「そこにあるもの、ひとりでに生まれ出るもの」ととらえられています。それが「成る」(実がなる、など)という言葉に端的に表されています。古代日本人の宇宙観、自然観といったものが、このようなところからもうかがえて、興味深くもあります。

天地初発之時をどう訓読するか?

ところで、古事記の原文は漢文なので、幾通りもの訓読があるのが普通です。例えば、「天地初發之時」だけでも

  • あめつちのはじめのとき(記伝)
  • あめつちはじめてひらけしとき(大系記・記注釈など)
  • あめつちはじめてあらはれしとき(全集記)

などがあります。どれが正しくてどれが間違っている、ということではなく、それぞれの校訂者の方針に基づくものですので、どの訓読にも一理があり、また異論をはさまれる余地があるわけです。例えば、a の立場から見れば、b の「天地がひらける=天地開闢」という表現は中国の陰陽思想的発想に基づくもので、日本古来の言い方ではないので不適である、ということになり、b の立場からすれば、a には動きがなく、出だしからダイナミックに次々とストーリーが展開していく伝承文芸の文体としてそぐわない、という見方があります。

しかし、たとえ訓読がはっきり定まらなくても、原文の漢字に変わりはないわけですから、訓読によって意味が極端に違ってしまうという心配はないわけです。

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なぜ訓読する必要があるのか?

それでも昔から、国学者や研究者たちは、よりよい訓読をつけるための努力を続けてきました。それはなぜでしょうか。原文の漢文(特殊な漢文なので変体漢文と呼ばれています)がきちんと定まりさえすれば、その漢字の意味さえつかめば、あとはいきなり現代語訳をしてしまっても、記述内容の理解という点では何の問題もないはずです。

実は、その点に古事記という漢文体の書物の特殊性があります。古事記は万葉集と同じく、漢文と万葉仮名(例:あめを阿米、くらげを久羅下と表記、万葉仮名についてはこちらを参照)が入り混じった、いわゆる変体漢文と呼ばれる文体で書かれています。

変体漢文は日本書紀などに記されている純粋な漢文体(当時の中国語)とは異なり、いわば「漢字のみで書かれた日本語」とでも言うべきものでした。純漢文体が「当時の中国語」としてそのまま読まれたのに対して、変体漢文体は「当時の日本語」として読まれたものなので、当然その日本語としての訓(読み方)があったはずなのです。古事記なら、筆録者である太安万侶の頭の中には「天地初發之時」に対する日本語の音声があったはずです。それを再現しようとするのが、彼らの努力に他ならないわけです。

それは専門の研究者たちの興味であり、仕事でもあるわけですが、私たちはそのようなことは気にかけず、純粋に古事記の物語世界を楽しめればよいのだと思います。

もっとも、漢詩や漢文で書かれた歴史書などに対しても、古典中国語としてそのまま読む流儀とは別に、これを訓読によって日本語として読み直すことは行われていますが(例:国破山河在=くにやぶれてさんがあり)、それはまた別の話です。