ここで後に生まれた五男神のうち、天菩比命と天津日子根命を祖先神とする氏族が紹介されます。残りの三男神のうち、オシホミミについては、天孫降臨の主役となるその子ホノニニギから神武天皇以下につながる皇室の祖先神ですが、あとの二神、活津日子根命と熊野久須毘命をを祖先神とする氏族については言及されていません。
アメノホヒの系譜の段・本文
建比良鳥命
建比良鳥命は、たけひらとりのみこと、と読みます。天菩比命の子であり、出雲国造をはじめとする氏族の祖神とされます。崇神紀六十年の条に、
武日照(たけひなてる)命の、天より将(も)ち来たれる神宝(かむたから)を、出雲大神の宮に蔵(おさ)む。是を見欲(みまほ)し。
という天皇の詔があり、それが原因で出雲臣一族の間で争いが起こり、出雲振根が誅殺されてしまう、という記述があります。武日照命の注に、「一に云はく、武夷鳥(たけひなとり)といふ。又云はく、天夷鳥(あめひなとり)といふ」とあります。
ヒラトリ、ヒナテル、ヒナトリ、といくつか異称がありますが、この神名の意味については諸説あり、もとの形は「ヒナトリ」で「日な鳥」(ナはノの意)とする説(記注釈)、ヒラを黄泉比良坂のそれと同じとして、「異郷への境界」を飛ぶ鳥の意味と取る説(集成記)などがあります。
古事記の伝承では、国譲りの段で、アメノホヒは最初に葦原中国の大国主のもとへ遣わされたが、大国主に媚びついてしまい、三年もの間戻ってこなかったとされます。一方、出雲国造神賀詞(新任の出雲国造が天皇に奏上する祝詞、国造の祖先神の事績を述べ、天皇の御代の続くことを願う内容)では、国情を見るためにアメノホヒを遣わし、その報告を受けてから、その子の天夷鳥命にフツヌシを副えて天降し、荒ぶる神々を平定し、大国主を媚び鎮めた、とされ、大活躍しています。ちなみに、この天夷鳥命にフツヌシを副えて、というのは、古事記にある天鳥船をタケミカヅチに副えて、という伝承と重なるところがあります。
出雲国造
出雲国造は、いづものくにのみやつこ、と読みます。「くにのみやつこ」は「国の御家つ子」の意味とされます。
これは、大化の改新以前の大和王権において、服属した各地の有力豪族に対して、労働力や物資などの租税の徴収や部民の設置などを請け負わせる代わりに、彼らを国造に任じてそれぞれの領地における世襲的な支配権を安堵したというものです。
大化の改新により律令制がとられるようになると、朝廷から任命された国司と呼ばれる官人が各地の国の長として政治的・行政的権限を振るうようになり、従来の国造の多くは郡司に転身したり、政治的・行政的権限を失って主に祭祀をつかさどるようになったりしました。ただし、孝徳紀の詔に、
国司等、国に在りて罪を判ること得じ。(大化元年(645)の東国国司の詔)
とあるように、当初国司に裁判権はなく、郡が罪を決めていたようです。また、違反した国司が罰せられているのが、次の二年の条に見えます。改新の詔の後もしばらくの間は、国造の地方支配における影響力は大きかったものと見えます。
現代まで続く国造家としては、出雲大社の出雲国造家と日前・国懸神宮の紀伊国造家が著名です。
出雲国造の系譜については、紀で「天穂日命 是出雲臣・土師連等が祖なり」(本文)、「天穂日命。是出雲臣・武藏国造・土師連が遠祖なり」(第七段一書(第三))、出雲国造神賀詞に「出雲臣等が遠祖天穂比命」とあり、新撰姓氏録に掲載されている出雲臣・出雲宿禰もすべて天穂日命または天日名鳥命の後裔とされています。
また、書紀に、タカミムスビが大己貴神(大国主)に、
汝が祭祀(まつり)を主(つかさど)らむは、天穂日命、是なり。(神代紀・第九段・一書第二)
と勅した、と記されており、実際、天穂日命の末裔である出雲国造が、現代にいたるまで出雲大社に仕え、祭神である大国主を斎き祭っています。
无邪志国造
无邪志国造は、无邪志は「むざし」と読みます。後に武蔵(むさし)と呼ばれるようになりましたが、古くは「むざし」だったようです。
武蔵国は、現在の東京都・埼玉県のほぼ全域と、神奈川県の川崎市と横浜市を合わせた領域にあたります。万葉集に「牟射志野(むざしの)」(十四・三三七九)と見えます。
上の出雲国造の項にも出てきましたが、記以外にも、紀の本文・一書で、出雲国造と共通の祖神(天穂日命)を持つとされています。先代旧事本紀に、
无邪志国造 志賀高穴穂朝の御世(成務朝)に、出雲臣の祖名は、・・・二井之宇迦諸忍之神狭命の十世孫、兄多毛比(えたもひ)命を国造に定め賜ふ。(巻十・国造本紀)
とあり、その名は高橋氏文逸文にも「無邪志国造上祖大多毛比」と出てきます。
なお、安閑紀元年の条の、
武蔵国造の笠原直(あたへ)使主(おみ)が同族小杵(をき)と争っていたが、朝廷は使主を国造にし、小杵を誅した。すると使主はかしこまり喜んで、横渟・橘花・多氷・倉樔の四か所を屯倉として朝廷に奉った。
は、大化の改新以前の典型的な国造の実態を表すものとして注目されます。笠原直については倭名抄の武蔵国埼玉郡笠原郷に関わると考えられます。また、
武蔵国足立郡の不破麿なる人物が武蔵宿禰の姓を賜い、さらに武蔵国造に任ぜられた。(続日本紀・巻二十八・神護景雲元年(767))
延暦十四年(795)に、武蔵国足立郡大領の武蔵宿禰弟総を武蔵国造とした。(類聚国史)
などの記事に見られる国造は、大化の改新以前のものとは異なり、律令制が浸透した結果、かつての国造たちが土地の支配権を失い、主に祭祀に関わるようになった時代のものです(従来の国造と区別するために、律令国造などと呼ばれるようです)。記注釈は、武蔵国の一の宮(一国で最も社格の高い神社)である氷川神社との関わりを推定しています。
(1.5.7 天菩比命・天津日子根命の系譜(2)に続きます。)