いよいよイザナギ・イザナミによる国生みが始まります。天つ神たちの命を受け、授かった天沼矛で潮をかきまぜます。すると矛先からしたたり落ちた潮が積もり積もってオノゴロ島となります。次の段ではニ神がこのオノゴロ島に降臨し、そこで国づくりを始めます。
つまり、ここは国生みの拠点となる島を作る話です。特徴的なのは、イザナギ・イザナミは自らの意志で国を「修理固成(つくり固めること)」しようとしたわけではなく、天つ神たちの命を受けてそれに従う形でなされているところです。
オノゴロ島、修理固成の段・本文
天神諸命以
天神諸命以は、天つ神もろもろの命(みこと)もちて、と訓読します。天つ神たちの勅命によって、という意味です。天つ神たち、というのは、具体的には最初の五神「別天つ神」のことであると考えられていますが、イザナギ・イザナミを含めた高天原の神全員のことであるとして、その総意に基づいてこの二神に決まった、と見ることもできます。
古事記の今後の展開では、タカミムスビが高天原において主導的な役割を果たすことから、天つ神たちの総意に基づくとはいえ、ここでの中心もタカミムスビであると考えるのが妥当かもしれません。
詔
詔は、のる、と訓みます。宣言する、告げるという意味です。名のる(なのる)、祝詞(のりと)はこの「ノル」から来ています。ここでは記伝に従い「のりごつ」と訓みましたが、これは「のりごとす」を約めたものです。「ひとりごとす」を「ひとりごつ」などと言うのと同じです。
修理固成
修理固成は、つくり固め成す、と訓読します。他にも様々な訓読が考えられます。修理は整えること、固成は固めて作ることです。まだ「くらげのように漂っている」状態の国土をしっかりと整えて形作ることを言います。
多陀用幣流
多陀用幣流は、ただよへる、と読みます。「くらげなすただよへる」の部分とほぼ同じなので、分注を省いたものと思われます。
天沼矛
天沼矛は、あめのぬぼこ、と訓みます。「ヌ」は瓊(ぬ、に、たま、けい)で、玉のことです。日本書紀での表記は天之瓊矛・天瓊矛(あめのぬぼこ)です。ヌボコとは、玉で飾られた矛という意味になります。沼は借字、つまり当て字です。辞書によると、この「ヌ」は特に赤い玉を指すそうです。
後でアマテラスとスサノオのウケヒの場面で「ぬなとももゆらに」という表現が出てきますが、この「ぬなと」は「瓊(ぬ)の音」がつづまったものです。この矛は男性器を象徴するという見方があります。このくだりを、そのまま男女の交接による国(島)生みと解釈するわけです。この見方に立つと、大国主命(おおくにぬしのみこと)の別名である「八千矛神」(やちほこのかみ)の矛も同じように解釈されます。
言依
言依は、ことよさす、と訓みます。「コトヨス」の尊敬語です。「コトヨス」は命ずる、任せる、委ねる、という意味です。事依、とも書かれます。記伝は、本字(音だけ借りたのではなく、意味を表す字)は「事」の方で、この「言」は借字(当て字)であるとします。もし「言」が本字であるならば、「御言依さす」(みことよさす)という表現があってしかるべきだが、そういう用例はないからだ、というのが根拠のようです。その説に従うと、「こと」は一般的に何か物事を表し、「依(よ)す」は依頼、依存の依で、頼る、寄りかかるという意味なので、「コトヨス」で、何か物事を頼む、委ねる、くらいの意味になります。
天浮橋
天浮橋は、あめのうきはし、と訓みます。文字通りに取ると、天空の浮橋で、イザナギ・イザナミや、のちのオシホミミ、ホノニニギなどの高天原の神々が、まずここに立ってから地上世界に降臨するところから、高天原と地上世界を結ぶ梯子のようなものと考えるのが自然な解釈だと思います。丹後国風土記(八世紀前半成立)に、イザナギが天に通うために橋を立てたが、寝ている間に倒れてしまった、という伝承が残っています。それが現在の天橋立になったということです。
鹽許袁呂許袁呂邇畫鳴
鹽許袁呂許袁呂邇畫鳴は、塩(しほ)こをろこをろに画(か)き鳴(な)して、と訓みます。鹽は「潮・塩」のことで、海水・塩のことです。コオロコオロニ、というのは擬音です。「コロコロと音を立てながら海水をかき回して」という意味です。
古代の人々も、現代の私たちと同じように、数多くの擬音を用いていました。他に有名なものに「ぬなともモユラに」(首飾りの玉がぶつかり合って立てる音を「モユラ」と表した)などがあります。現代の私たちから見ると、古代人の言語感覚や聴覚にある種の新鮮さを感じずにはいられないのではないでしょうか。このような言葉が随所にちりばめられている点も、古事記を読むことの魅力の一つなのだと思います。
淤能碁呂島
淤能碁呂島は、おのごろ島、と読みます「自凝島」(おのずからこり固まってできた島)という意味です。「ゴロ」は「凝る」(固まるの意)にも「コオロコオロ」にも通じます。この次にイザナギ・イザナミは次々と国(島)を生んでいきますが、最初のこのオノゴロ島だけは、二神が子として生んだのではなく、海水の塩が凝固して自然に出来上がったものなので、この名がついています。どの島を指すのかについては様々な説があるようですが、神話上の島でもあり、現実の所在を特に明記しているわけでもないので、無理に現実の地理に当てはめる必要はなさそうです。
ところで、神話によくあるパターンとして、ある土地の地形や地名の由来を語るというものがあります。例えば、
群馬県の榛名山は、ダイダラボッチと呼ばれる巨人が夜の間に土を盛って作ったものだが、夜が明けると途中で作業をほっぽりだしてしまったため、富士山よりも低いのだ
とか、
ヤマトタケルが東征を終えた後、東を向きながら、亡くなった妻をしのんで「吾妻(あづま)はや」(ああ、わが妻よ)とつぶやいたことから、東国のことを「あづま」と呼ぶようになった
などの話がよく知られています。
この場合は、そこで語られる土地の場所や地形や名前が現時点で確定していて、その由来を神話に求めるというパターンになっています。このパターンの説話では、現実のどの土地のことを指しているのか、ということが非常に重要になってきます。実際、上の説話は、榛名山、富士山、東国という現実の土地・地形なしでは意味をなさなくなります。
一方、オノゴロ島の場合は、現在のある土地の地形や名前の由来を語るのではなく、イザナギ・イザナミの国生みというストーリーを展開させる装置としての働きが主眼なので、それがどこなのかは特に問題になっていません。
さて、国生みの拠点となるオノゴロ島が出来上がりました。次はいよいよ国生みに取りかかります。