こうして、伊邪那岐大神は「私はなんとも醜い醜い、穢れた国へ行っていたものだ。だから私は、禊ぎをして身体を洗い清めよう」と言って、筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原にたどり着き、禊ぎ祓いをした。
そこで、投げ棄てた御杖に成った神の名は、衝立船戸神。
次に投げ棄てた御帯に成った神の名は、道之長乳歯神。
次に投げ棄てた御嚢に成った神の名は、時量師神。
次に投げ棄てた御衣に成った神の名は、和豆良比能宇斯能神。
次に投げ棄てた御褌に成った神の名は、道俣神。
次に投げ棄てた御冠に成った神の名は、飽咋之宇斯能神。
次に投げ棄てた左の御手の手纏に成った神の名は、奥疎神。次に奥津那芸佐毘古神。次に奥津甲斐弁羅神。
次に投げ棄てた右の御手の手纏に成った神の名は、辺疎神。次に辺津那芸佐毘古神。次に辺津甲斐弁羅神。
右の船戸神から辺津甲斐弁羅神までの十二はしらの神は、伊邪那岐命が身に着けていたものを脱ぎ棄てたことによって成った神である。
(前の記事の続きです。前記事は1.4.4 禊ぎ/投げ棄てた物に成る神々(1)です。)
投棄御杖
投棄御杖は、「棄」はうつる、と訓みます。日本書紀本文の誓約(うけひ)の段の訓注に、「吹棄氣噴之狹霧 此云 浮枳于都伊浮岐能佐擬理(ふきうつるいぶきのさぎり)」とあるのによります。ここもこれまでのように、「次に次に」と同じ句が反復されていますが、これは口承文芸に特徴的な表現形式です。杖は倭名抄に「杖 和名 都惠(つゑ)」とあります。
衝立船戸神
衝立船戸神は、つきたつふなとの神、と読みます。杖に成った神です。「衝立」は杖が地面に突き立っているという意味です。
杖を地面に突き立てることは、さまざまな呪術的な意味があったらしく、悪神の侵入を防ぐ境界を示す役割を果たしたり、杖を突き立てたところから清水が湧いたり、その杖が生きた樹木に化生したり、といった民間伝承が多く残されています。
この神については、紀一書(第六)の「ことど渡し」のところの、
因りて曰はく、「此よりな過ぎそ」とのたまひて、即ち其の杖を投げたまふ。是を岐神と謂す。
(そこでイザナギは「ここを過ぎるな」と言って杖を投げた。これを岐神(ふなとのかみ)という。)
の訓注に「岐神 此云 布那斗能加微(ふなとのかみ)」、また、一書(第九)に、
時に伊弉諾(いざなぎの)尊、乃ち其の杖を投てて曰はく、「此より以還(このかた)、雷敢来(えこ)じ」とのたまふ。是を岐神と謂す。此、本の號(な)は来名戸(くなと)の祖神(さへのかみ)と曰す。
(その時、イザナギは、杖を投げて、「ここから先は、雷どもよ来るな」と言った。これを岐神という。その元の名を「くなとの祖神(さへのかみ)」という。)
とあります。また、延喜式の道饗祭祝詞の祭神に「久那斗」の名が見えます。「ふなと」が「くなと」になっていますが、「く」と「ふ」という二音(kとf)は、似て聞こえるため、しばしば交替するようです。それぞれ「経勿所(ふなと)」「来勿所(くなと)」(経るなの所、来るなの所)で、「ここから先に入って来るな」の意味になります。
つまり、「ふなとの神」とは、自らが境界のしるしとなり、そこを越えて悪鬼や邪気が入って来ないように食い止める、一種の「塞の神」であると考えられます。
道之長乳歯神
道之長乳歯神は、みちのながちはの神、と読みます。御帯から成った神です。日本書紀の一書(第六)には「長道磐神」(ながちはの神)とあります。長い道のりの神、という意味です。帯からの連想と考えられます。黄泉の国から逃げてきた道のりの長さを重ねているものと思われます。「乳」(ち)は「道」(ち)の借り字です。
「道之長道」に類する表現に「道の長手」(みちのながて)があり、万葉集に「路之長手」(四・七八一)、「道乃奈我弖(ながて)」(十五・三七二四)、「道之長道」(二十、四三四一)などがあります。
「歯」の意味は未詳ですが、紀一書の「磐」が正字だとすると、「長い道をつかさどる磐の神」「長くて磐がごろごろしている道の神」といった意味に取ることができます。
御嚢、時量師神
御嚢、時量師神は、それぞれ、みふくろ、ときはかしの神、と読みます。底本では、それぞれ「御裳」(みも)、「時置師神」(ときおかしの神)となっていますが、真福寺本などに従い、こちらを採りました。
宣長は、底本の「御裳・時置師神」の組み合わせで、「裳を解き置く」または、置は直の写し間違いで、「裳を解き直す」の意ではないかと述べていますが、そもそも「裳」は女性の着るスカート状のものなので、問題があります。
裳に当たる男性の着衣は「褌」(はかま)です。「はかま」は「穿く裳」(はくも)で、ズボン状のものです。日本書紀にはこの神に相当する神名は見当たりません。
時は「解き」の借り字と考えられます。問題は「はかし」ですが、万葉集の防人歌に、
道の辺の 荊(うまら)の末(うれ)に 這ほ豆の からまる君を 別(はか)れか行かむ(二十・四三五二)
赤駒を 山野に放(はが)し 捕りかにて 多摩の横山 徒歩(かし)ゆか遣らむ(二十・四四一七)
とあり、ハカル・ハガスという言葉が、別れる・離れる・放すなどの意味に用いられており、この神名の「ハカシ」もその意味であるとすると、「トキハカシ」は「解き放し」で、袋の紐を解放することからの連想と考えることができます。
和豆良比能宇斯能神
和豆良比能宇斯能神は、わづらひのうしの神、と読みます。日本書紀の一書(第六)には「煩神」(わづらひの神)とあります。「この神は、御衣の神であるから、衣が身にまつわりついて、厄介な感じのある点をとらえての命名ではなかろうか」(大系紀補注)という説があります。現代でもこのようなとき、「わずらわしい」というような言い方をします。「わづらふ」は物に差し障りがあり、滞っている状態を表します。病気についても言います。
「うし」は「大人・主人」で、「のうし」が約まって「ぬし」(主)であり、この二つは同じ意味であると、宣長は説明しています。
この神は「御衣」(みけし)から成りますが、この言葉は「着る」の敬語「けす」の名詞形「けし」に「御」をつけたものです。同じ構成の言葉に「御執」(みとらし、弓)、「御佩刀」(みはかし、剣)などがあります。
御褌、道俣神
御褌、道俣神は、「褌」(はかま)は上述のように、「穿く裳」(はくも)の古い形で、股の割れているズボン状の着衣で、男性用です。「道俣」(ちまた)とは、道が分かれているところで、やはり「褌」から連想されたものと考えられます。
延喜式の道饗祭祝詞に挙げられる「八衢(やちまた)比古、八衢比売る、久那斗(くなと)」のうちの前の二神がこの道俣神に、最後の久那斗が衝立船戸神にあたり、いずれも一種の「塞の神」になります。
御冠、飽咋之宇斯能神
御冠、飽咋之宇斯能神は、それぞれ、みかがふり、あきぐひのうしの神、と読みます。「隋書」倭国伝に、
頭亦無冠、垂髪於両耳上、至隋其王始制冠。
(頭に冠はなく、髪を両耳の上に垂れていた。隋代になって、その王は初めて冠を制定した。)
とあります。これは推古天皇のときに制定された「冠位十二階の制」(604年)のことです。それ以前には倭人が冠を着ける習慣はなかったことが、この記録からうかがえます。
そのため、ここに「御冠」と出てくることを不審とする向きもあります。そこで、これを「鬘(かづら)」とする解釈が出てきますが(大系記)、鬘は黄泉醜女(よもつしこめ)から逃げるために既に投げ棄てているので、やはり問題が残ります。
記注釈では、必ずしも官人の位階を表す正装としての冠ということにこだわらず、「もっと大まかにかぶりものの意にとっていいはずだ」としています。実際、古墳時代の埴輪を見ると、その意味の冠ではなくても、頭に被り物をしている像が多く見られることから、そのように解釈することは可能です。
飽咋之宇斯能神は、紀一書(第六)では「開囓神」(あきぐひの神)とあり、こちらでは褌(はかま)から成ったとされています。名義は未詳ですが、大祓祝詞に、
荒塩の塩の八百道の、八塩道の塩の八百会に坐す速開都比咩と云ふ神、持ちかか呑みてむ。かくかか呑みては、気吹戸に坐す気吹戸主といふ神、根の国・底の国に気吹き放ちてむ。云々
とある、この「かか呑む」を「かがふり」という言葉から連想し、「あきぐひのうし」(飽きるほど食う、口を大きく開けて食う)という神名が出てきたのではないかという説があります(記注釈)。この「かか呑む」の「かか」は擬声語で、がぶがぶ飲むという意味です。ただし、紀一書の方では、この神は御冠ではなく、褌から成っています。
(1.4.4 禊ぎ/投げ棄てた物に成る神々(3)に続きます。)