兄の八嶋士奴美神が、大山津見神の娘、名は木花知流比売を娶って生んだ子は、布波能母遅久奴須奴神。この神が淤迦美神の娘、名は日河比売を娶って生んだ子は、深淵之水夜礼花神。この神が天之都度閇知泥神を娶って生んだ子は、淤美豆奴神。この神が布怒豆怒神の娘、名は布帝耳神を娶って生んだ子は、天之冬衣神。この神が刺国大神の娘、名は刺国若比売を娶って生んだ子は、大国主神。またの名は大穴牟遅神といい、またの名は葦原色許男神といい、またの名は八千矛神といい、またの名は宇都志国玉神という。合せて五つの名がある。
スサノオ—ヤシマジヌミ—フハノミヂクヌスヌ—フカフチノミズヤレハナ—オミヅヌ—アメノフユキヌ—オオクニヌシの系譜です。オオクニヌシはスサノオの六世孫であることが分かります。
木花知流比売
木花知流比売は、このはなちるひめ、と読みます。後出の木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)に対応する神名です。どちらも大山津見神の娘である点も共通です。
ここではスサノオからオオクニヌシに至る系譜が紹介されており、その途中で大山津見神の娘コノハナチルヒメが関わっています。
一方、同じ大山津見神の娘であるコノハナノサクヤビメの方は、ホノニニギから神武天皇に至る系譜に関わっており、この二つの系譜には構造的な類似があると言えそうです。
これについては、神大市比売の項でも触れましたが、大山津見神の娘とされるこれらの女神たちは、もともと女神であった山の神・農の神の大山津見神の職掌を分け持つ、いわば大山津見神の分身とも言える存在でした。
したがって、スサノオやホノニニギとこれらの女神たちが結びつくことは、すなわち天神・皇孫と大山津見神が結びつくことであり、ひいては高天原・皇統が葦原中国の国土における自然や生産や収穫を手中に収めることでもあると見ることができます。
なお、「花が散る」という言葉には、秋の豊かな収穫への予祝が込められているとする説があります。(集成記)
布波能母遲久奴須奴神
布波能母遲久奴須奴神は、ふはのもぢくぬすぬの神、と読みます。名義未詳ですが、宣長は、
母遅(もぢ)は、大穴牟遅の牟遅(むぢ)と同じ、【・・・布波能母遅(ふはのもぢ)と大穴牟遅(おほなむぢ)と、凡て通ひて聞ゆ…】、久奴(くぬ)は国主(くにぬし)なるべし、【これ又かの大国主の例あり、】須奴(すぬ)は意得がたし。
と推測しています。この説に従えば、「ふはのもぢ」は「おほなむぢ」に通じ、「くぬ」は「国主」であり、したがってこの神名はオオナムヂ(のちの大国主)に重なるものと見ることができます。
淤迦美神
淤迦美神は、おかみの神、と読みます。闇淤加美神(くらおかみの神)の項でも触れましたが、「おかみ」は竜蛇の神で、水をつかさどる神です。
日河比売
日河比売は、ひかはひめ、と読みます。水神オカミの娘です。日河(ひかは)は武蔵国の氷川(氷川神社がある)とする説、「ひ」を神霊の意に取って「霊的な川」とする説などがあります。いずれにしても、水や河に関係する神のようですが、未詳です。
深淵之水夜礼花神
深淵之水夜礼花神は、ふかふちのみずやれはなの神、と読みます。「深淵」「水」から水に関する神と考えられますが、未詳です。「夜礼花」(やれはな)も未詳ですが、宣長は、
花知流(ちる)より、日河の河に承(うけ)、さて淵の水に至て、破(やれ)傷(そこな)はるる花と云意に、次々名けしにや。
と、上から連なる神名の連想から名付けられたのではないか、と述べています。「花が散り、川に流され、淵に至り、破れる花」ということのようです。
天之都度閇知泥神
天之都度閇知泥神は、あめのつどへちねの神、と読みます。「つどへ」は「集へ」、「ち」は「道」または神霊、「ね」はアヤカシコネなどの「ね」で親称(親しい人に対する呼び方)または称え詞です。
この神も名義は未詳ですが、前後に水に関する神が続いているので、ここも水を集める水路や水の運行に関する神かと思われます。なお、宣長は、
前後の例に依るに、此の神のみ、父の名を挙げざること疑はし、故れ思ふに、此れは父神の名にて、此の下に、之女名某比売と云ことの脱(おち)たるにや。
と指摘しています。つまり本来は「天之都度閇知泥神の女、名は〜比売に娶ひて生みませる子は云々」とあったのが、下線部が脱落してしまったのではないか、ということです。
淤美豆奴神
淤美豆奴神は、おみづぬの神、と読みます。古事記伝は「大水主」(おほみづぬし)の意か、としています。出雲国風土記に「八束水臣津野命」(やつかみづおみつのの命)とあります。「八束水」は水の豊かさを称える美称です。
出雲風土記においては、名高い国引き詞章の主人公であり、出雲の国土創造神であり、祖先神ですが、古事記ではスサノオの四世孫であり、オオナムヂの祖父であると系譜づけられています。
ところで、国引き詞章をはじめとする風土記の説話の多くは本来土着のものと考えられますが、そこに現れる人名・神名までもがそうとは限りません。
つまりこの場合、出雲土着の神名が古事記のこの系譜に取り込まれたのか、それとも逆に、古事記のこの系譜に現れた神名が出雲国風土記の国引き詞章の主人公の名として採用されたのか、という問題があります。
ここで注目されるのは、次の宣長の指摘です:
此神(筆者注:八束水臣津野命)の御事処々に出て、彼国に甚く功ありし神と聞えたり、然るを其の御社の見えぬは、如何(いか)なるにか。
出雲の国土を創造するという大功を成した神にしては、地元にこの神を祭る神社は見当たらないようです。
このことから、この八束水臣津野命は出雲土着の神ではなく、古事記の系譜に現れるこの淤美豆奴神の名が出雲風土記に取り入れられたものではないかという憶測が出てきます。
常陸国風土記に倭武(やまとたける)天皇が、豊後国風土記に景行天皇が、その説話群の主人公として現れることからも、風土記編者は中央(大和)の伝承(特に登場人物)を地方の伝承として取り入れることを強く意識していたことがうかがえます。
出雲国風土記においても、たとえば出雲郡条の、
八束水臣津野命の国引き給ひし後、天の下造らしし大神(注:大国主のこと)の宮を造り奉らむとして、諸の皇神等、宮処に参集ひて、杵築(きづ)きたまひき。故、寸付(きづき)といふ。
は古事記の国譲りの段やこの段の系譜を念頭に置いて、風土記神話を構成しようとする姿勢がうかがえると見ることもできます(記注釈)。
また、地方の神に対して「天の下造らしし」と冠するのは本来ふさわしくなく、ここも中央の記・紀における「天の下しろしめす天皇」の語り口が取り入れられたものと考えられます。
このように、風土記の表現や人名・神名には、記紀神話から導入された、もしくはその影響のもとに構成された要素が多く入り込んでおり、この神の名もその方向で出雲風土記の方に取り込まれたものと見ることができそうです。
布怒豆怒神・布帝耳神・天之冬衣神
布怒豆怒神・布帝耳神・天之冬衣神は、いずれも名義未詳です。記注釈は、これらの神名に特に意味はなく、オミヅヌ、フノヅノ、フテミミ、フユキヌ等、音韻上の連鎖にもとづく名にすぎないとしています。
刺国大神・刺国若比売
刺国大神・刺国若比売は、いずれも名義未詳ですが、刺国については、「さす」を占有する(標を地面に刺すことで土地の占有領域を主張したことから)の意として、「国を占有する」ことにちなむ神名とする説があります。
なお、刺国大神は「刺国の大神」ではなく、「刺国大の神」と区切ります。
(1.7.7 スサノオの系譜・続(2)に続きます。)