イザナギが水に潜った時に成った三柱のワタツミ(綿津見神)が阿曇連の祖先神であること、そして底・中・上筒之男命の三柱が墨江(住吉大社)の三前の大神であることが述べられています。
阿曇連は現在の福岡県・志賀島周辺に本拠を持つ海人集団として大陸との交通に影響力を持ち、住吉大社の三柱の神は大阪湾周辺の海路の安全を司る神として古くから篤く信仰されていました。
阿曇連と綿津見神、住吉大社と筒之男命の段・本文
(前の記事の続きです。前記事は1.4.9 禊ぎ(4) 瀬にすすぐ時に成る神々です。)
ここでは、前段の三柱の綿津見神が阿曇連の祖先神であること、そして底・中・上筒之男命の三柱が墨江の三前の大神であることが述べられています。
阿曇連
阿曇連は、あずみのむらじ、と読みます。「むらじ」とは「村主」が約まったものと考えられます。連はヤマト王権における姓(かばね)の一つで、王権に連なる有力氏族の職掌や地位を表すものとされました。姓はヤマト王権成立以前から各地の豪族が名乗っていたものですが、ヤマト王権成立後は制度化され、朝廷からそれぞれの氏族に与えられることになりました。
連の有力氏族としては他に、中臣氏・物部氏・大伴氏などが有名です。連はかつて臣(おみ)と並んで最高位の姓の一つとされていましたが、672年に天武天皇により八色の姓が制定されると、連は八色のうち第七位とされるようになりました。天武紀十三年の条に、
更改諸氏之族姓、作八色之姓、以混天下萬姓。一曰、眞人。二曰、朝臣。三曰、宿禰。四曰、忌寸。五曰、道師。六曰、臣。七曰、連。八曰、稻置。
とあります。この記事には続けて、その年のうちに、多くの臣・連が朝臣・宿禰の姓を賜ったことが記されており、阿曇連も宿禰姓を賜ったことが見えます。
阿曇連の本拠地は筑前国糟屋郡阿曇郷(福岡県糟屋郡・福岡市東区あたり)で、延喜式神名帳の同郡の条に「志加海神社三座」とあり、これがこの三神を祀った神社です。これは現在の志賀島(福岡市東区)の志賀海神社に比定されています。万葉集の
ちはやぶる 金の岬を過ぎぬとも われは忘れじ 志賀の皇神(七・一二三〇)
は、玄界灘に面した波の荒い鐘ノ岬を無事に通過した際に、この志賀海神社の三神のことを詠んだ歌です。このように、この三柱の綿津見神は航海の神としてこの地の海人たちに祭られていました。阿曇連は、応神紀三年の条に、
処処の海人、さばめきて命に従はず。則ち阿曇連の祖大濱宿禰を遣して、其のさばめきを平ぐ。因りて海人の宰(みこともち)とす。
とあるように、海部(あまべ、海産物の上納、航海技術などで朝廷に奉仕した部民)を統括する伴造です。志賀の海人はつとに有名だったようで、他に万葉集の「筑前国の志賀の白水郎(あま)の歌十首」(十六・三八六〇以下)がよく知られています。これは筑前国のある百姓に代わって対馬に船で食料を送り届けようとした白水郎の荒雄という者が、暴風雨に遭って海に沈んでしまったことを悼んで、山上憶良が荒雄の妻子たちに仮託して詠んだとされる歌です。
また、日本書紀には神功皇后の新羅遠征の際に、志賀の海人の草という者の働きがあったことが述べられています。これらの記述から、この地域が古くから阿曇連を頂点とする海部たちの一大拠点となっていたことがうかがえます。
他に、肥前国風土記の値嘉郷の条に、阿曇連百足(ももたり)なる人物が島々の土蜘蛛(朝廷に恭順しない土豪のこと)の首長を捕えた、という記事があり、またその地の白水郎(あま)についても言及されています。なお、「さばめく」とは「上をそしり、わけのわからぬ言葉を放つ意」(大系紀)です。
祖神
祖神は、おやがみ、と訓みます。祖先神という意味です。古くは両親のことのみならず、自らの血につながる先祖のことをすべて「おや」と言いました。この段の記述から、阿曇連は自分たちの祖先であるところの綿津見三神を祖先神として斎き祭っていることが分かります。実際、現在においても末裔とされる阿曇氏が志賀海神社の社家として存続しています。
以伊都久
以伊都久は、もちいつく、と読みます。「もち」は「もてなす・もてはやす」などの「もて」と同じです。「斎く」とは、心身の穢れを取り除き、身を清浄にして神を大切にして仕えることです。神を大事に扱うことを意味したことから、後世「いつくしむ」という言葉が派生したとされます。
宇都志日金拆命
宇都志日金拆命は、うつしひがなさくの命、と読みます。「うつし」は「顕し」で、現実の、現に存在する、という意味です。本来不可視の神霊が姿を現したものと考えられます。「ひがなさく」については未詳ですが、「ひ」は神霊、「かなさく」は「網をかがる、網を編む」の意で、魚を捕る網を使う海人を指すとする説があります(集成記)。綿津見神の子で、阿曇氏の祖先とされています。
子孫
子孫は、すゑと訓みます。「うみのこ」とも訓みます。
墨江之三前大神
墨江之三前大神は、すみのえのみまへのおほかみ、と読みます。墨江(すみのえ)は住吉(大阪府)のことです。延喜式神名帳の摂津國住吉郡の条に「住吉坐神社四座」とあります。現在の住吉大社です。四座とあるのは、のちに神功皇后が祭神に加えられたためと言われています。
神功皇后が新羅国に遠征するときに、この三神が現れてその神託により海路を導いたという伝承があります。神功紀摂政元年の条に、
表筒男・中筒男・底筒男、三の神、誨(おし)へまつりて曰く、「吾が和魂をば大津の渟中倉の長峡に居さしむべし。便ち因りて往き来(かよ)ふ船を看(みそなは)さむ」とのたまふ。
(表筒男・中筒男・底筒男の三神が教えて言うことには、「私たちの和魂を大津の渟中倉の長峡(現在の大阪市住吉区)に鎮座させよ。そうすれば往来する船を見守ろう」と言った。)
とあり、これらの神は海上交通の安全をつかさどる神とされていたことが分かります。
住吉大社の臨む大阪湾は、古くから重要な港であり、その周辺(大阪府)は「津の国」と呼ばれてきました。また、住吉大社の社家は津守氏といいます。これらのことから、住吉三神は「津の守護神」と考えられてきたことが分かります。
前の段で「筒之男」の意味についてのいくつかの説を紹介しましたが、これらのことを合わせると、「つつ」=「つ」(の)+「津」(港、船着き場)として、「津の男神」であると考えるのがよいかもしれません。
この綿津見三神と筒之男三神は深い関係があったらしく、延喜式神名帳を見ると、摂津国住吉郡に住吉坐神社と大海(おほわたつみ)神社とあり、この大海神社も津守氏の斎き祭るところとなっています。また、筑前国に住吉神社と志加海神社が、壱岐島には住吉神社と海神社が、対馬島には住吉神社と和多都美神社が、という具合に、津の国と玄界灘周辺の地域で、この両神はともに並び立って祭られています。また、これらの神社はすべて延喜式において大社の格を与えられており、朝廷からも篤く崇敬されていたことが分かります。
記紀編纂当時の朝廷にとって、大陸との関係は大きな関心事でした。その大陸との関係において、重要な役割を果たしたのが、上述の記紀の記事にも見えるように、綿津見神を斎き祭る阿曇氏を頂点とする海人集団と、海路の安全を保障する筒之男三神の神威でした。神話のごく早い時点でこの両神が共に成り、さらにその「現在」についても言及があるのは、大和朝廷の当時におけるそのような関心が、現在進行形で反映したものと見ることができます。