イザナギは、イザナミに差し向けられたヨモツシコメ、八雷神、ヨモツイクサたち追手を黄泉比良坂のふもとで、桃の実によって撃退しました。すると、ついにイザナミ自身が直々に追いかけてきました。
イザナギは、千人の力でようやく引けるくらいの大きな岩(千引石)をどこからか持ってきて、黄泉比良坂を塞ぎます。その岩を挟んで向かい合ったイザナギとイザナミはことど渡し(別離の言葉を交わすこと)をします。
イザナギとイザナミのことど渡しの段・本文
千引石
千引石は、ちびきいは、と訓みます。ちびきのいは、とも訓みます。紀一書(第六)に「千人所引磐石」とあります。「千人の人たちで引っ張る(くらいに大きな)岩」という意味です。万葉集に、
わが恋は 千引の石を 七ばかり 首に繋けむも 神のまにまに(四・七四三)
があります。倭名抄には「知比木乃以之(ちびきのいし)」とあります。また、記中に「五百引石」(いほびきいは)の語も見えます。
引塞
引塞は、ひきさへと訓読します。「さふ」は「ふさぐ」という意味で他動詞です。「さはる」(障る)はその自動詞形です。記中のオオナムヂの段に「五百引石を其の室戸に取り塞へて」とあります。民間信仰の一つに、「塞の神」(さへのかみ)というものがあります。ご神体は石でできていることが多く、村落の境界や峠に置かれ、災厄をもたらす悪霊が侵入するのを塞き止める役割を果たすものです。ここに現れた千引石も、「黄泉の国」と「うつし国」を隔てる一種の塞の神と見ることができます。千引石に与えられた神名にも、その観念が反映されています。
度事戸
度事戸は、ことどをわたす、と訓読します。「度」(わたす)は「引導を渡す、言い渡す」の「渡す」です。「ことど」は、紀一書(第六)では「絶妻之誓」とあり、夫婦の別離の言葉を表すとされています。紀一書(第十)に「族離」(離婚しよう)とあるのも同じことです。
「こと」は「別」(こと)つまり別離、「ど」は祝詞(のりと)などの「と」で、呪的な言葉や行為を示す接尾辞であると考えられます。つまり「ことど」は「別離の言葉」という意味になりますが、必ずしも夫婦間に限らず、ここではうつし国と黄泉の国に引き裂かれる、生者と死者の間の別離を表す言葉であると考えることもできます。
汝國之人草
汝國之人草は、汝の国の人草、と訓読します。イザナギに黄泉比良坂を塞がれ、「ことど」を渡されたイザナミが、「そんなことをするなら、私はあなたの国の人間を一日に千人絞め殺してやりましょう」と呪詛の言葉を吐きます。
ここでは「うつし国」に生きる人間たちが「青人草」ではなく「人草」と呼ばれています。「青」は、人間を青々と繁茂する草木に喩えて、その生命力を美しく形容する言葉でした。それが外されることで、人間に対するぞんざいな扱い、その生命力を奪おうとする呪詛の念、といった意味が込められていることが読み取れます。
吾一日立千五百産屋
吾一日立千五百産屋は、イザナミが「一日に千人絞め殺します」と言ったのに対し、イザナギが「それなら私は一日に千五百の産屋を建てよう」と返しました。古くは出血を伴う出産は穢れと捉えられており、産婦は別に建てられた産屋という小屋に隔離されました。
のちの山幸彦の段で、豊玉姫がウガヤフキアエズ命を出産するときに産屋にこもりました。産屋は常設ではなく、お産のたびに建てられ、お産が終わると壊されるか燃やされるかしました。ですので、「産屋を建てる」ということは「新たに人間を産む」という意味になります。
是以一日必千人死 一日必千五百人生也
是以一日必千人死 一日必千五百人生也は、これが人が一日に千人死に、千五百人生まれるゆえんだ、という意味です。人間の生死の起源がここに語られていると同時に、人間の数が時とともに増えていく理由をも説明しています。
黄泉津大神
黄泉津大神は、よもつおほかみ、と訓みます。イザナミは、一日に千人を絞め殺すと宣言したことにより、人の死と、死者の世界をつかさどる神となり、この名を与えられました。
追斯伎斯
追斯伎斯は、追ひしきし、と読みます。「しく」は「追いつく」という意味です。仁徳記の大御歌に、
山城に い及(し)け鳥山 い及けい及け 吾が愛(は)し妻に い及き会はむかも
(山城で追いつけ鳥山よ、追いつけ追いつけ、我がいとしの妻に、追いついて会ってくれ)
があります。優劣を言うのに使われる「〜にしく者なし」「〜にしかず」もこの「しく」です。
道敷大神
道敷大神は、ちしきのおほかみ、と訓みます。イザナミがイザナギに追いついたことから、こう名付けられた、ということです。
道反大神
道反大神は、ちがへしのおほかみ、と訓みます。千引石が、黄泉比良坂に立ち塞がることで、イザナミを追い返したことから、こう名付けられました。
塞坐黄泉戸大神
塞坐黄泉戸大神は、さやりますよみどの大神、と読みます。よみどにさやります大神とも読めます。黄泉の戸(出入り口)に立ち塞がっていらっしゃる大神、という意味です。「塞(さや)る」は立ち塞がるの意で、祈年・六月月次・道饗・御門祭祝詞などに「四方の御門に、湯津磐村の如く塞り坐して、云々」と出てきます。葦原中国と黄泉の国を隔て、黄泉の国からの悪鬼や邪気の侵入を食い止める、一種の「塞の神」の役割を果たしていることが名前からもうかがえます。
伊賦夜坂
伊賦夜坂は、延喜式神名帳に、出雲国意宇郡揖夜(いふや)神社とあり、出雲国風土記の意宇郡の条にも伊布夜(いふや)社と出てきます。斉明紀五年の条に、
狗噛置死人手臂於言屋社。言屋此云伊浮。天子崩兆。
(犬が死人の腕をイフヤ社に噛み置いた。天皇の崩御する兆しである)
とあります。また、出雲国土記の出雲郡宇賀郷の条に、
北の海濱に礒あり。脳(なづき)の礒と名づく・・・礒より西の方に窟戸(いはやど)あり・・・窟の内に穴あり。人、入ることを得ず。深き浅きを知らざるなり。夢に此の礒の窟の辺(ほとり)に至れば必ず死ぬ。故、俗人(くにひと)、古(いにしへ)より今に至るまで、黄泉の坂・黄泉の穴と號(なづ)く。
(北の海浜に磯がある。「脳の礒」(なづきのいそ)という・・・その西に岩窟がある・・・その中に穴があって、人は入れない。深さ浅さも分からない。夢でこの礒の岩窟のほとりに行ったら必ず死ぬ。それで、地元の人は、古来より、黄泉の坂・黄泉の穴と呼んでいる。)
という記述があります。これらの記述と、イザナミが出雲と伯伎の境の比婆の山に葬られたことと合わせると、死後の世界・黄泉の国や坂は、出雲地方に密接に関連付けて考えられていたことが分かります。
これについては、出雲地方に残っていた黄泉についての古伝承が都に伝わり、古事記の神話を構成する際に取り入れられたとする説(集成記)や、日の沈む西方は死者の世界である、という観念があって、さらに大和からみて出雲は西に位置するからとする説(記注釈)などがあります。