さて、そこで伊邪那岐命は「愛しい我が妻を、子ひとりに替えてしまった」と言って、その枕元に這いつくばり、その足元に這いつくばって泣いたときに、その御涙に成った神は、香具山の畝尾の木の本にいる。名を泣澤女神という。そして、その神避った伊邪那美神は、出雲国と伯耆国の境にある比婆の山に葬った。
前段でイザナミが、ヒノカグツチを産む時にその陰部を火傷したのがもとで、神避(かむさ)ってしまいました。この段は夫のイザナギがそれを嘆く場面です。イザナギは泣き、その涙からは泣澤女神という神が成り、イザナミは比婆の山に葬られます。
愛我那邇妹命
愛我那邇妹命は、愛はうつくし、と訓みます。いとしい、という意味で、夫婦や親子の間の親愛の情を表現するときに使われます。斉明紀の大御歌に、
愛(うつく)しき 吾が若き子を 置きてか行かむ(斉明紀四年)
万葉集防人歌に、
天地の いづれの神を 祈らばか 愛(うつく)し母に また言問はむ(二十・四三九二)
があります。
那邇妹はなにも、と読みます。履中紀に、
鳥往来ふ羽田の汝妹は、羽狭に葬り立往ちぬ。(履中紀五年)
とあり、その訓注に「汝妹、此をば儺邇毛(なにも)と云ふ」とあります。
「な」というのは、もともとは「私」という意味で、「なのいも」=「吾の妹」ですが、のちにこの「な」が「あなた」という意味に転じたため、その由来が忘れられ、「なにも」は単に相手の女性に対する親愛と敬意を込めた表現になったようです(大系紀補注)。
子之一木
子之一木は、このひとつけ、と訓みます。子の一人と引き換えに愛しい妻を失ったことを嘆く台詞です。日本書紀一書の同じくだりは、
唯、一児(このひとつぎ)を以て、我が愛しき妹に替へつるかな(神代紀五・一書第六)
となっています。「き」または「ぎ」というのは、馬を数える助数詞にあり、「一児」=「ひとつぎ」=「一匹」となり、これはイザナギが妻を死なせた火神を憎んで「子供一匹」と表現したものであると解されます(大系紀補注)。
ここでは記伝に従って「ひとつけ」と訓むことにします。釈日本紀によると、古くは「木」を「け」と訓んだようです。景行紀に「御木」を「みけ」、万葉集に「真木柱」を「まけはしら」(二十・四三四二)、「松の木」を「まつのけ」(二十・四三七五)と読んだ例などがあります。宣長は、イザナギがこう呼んだ理由を不明としていますが、人が土から生まれた植物のようなもの(青人草)と見る世界観から、ここでも神を木に喩えて言ったのだとする説があります(口語訳)。
香山之畝尾木本
香山之畝尾木本は、天香久山の西麓の奈良県橿原市木之本あたりと考えられます。ここに畝尾都多本神社(うねおつたもとじんじゃ)があり、泣澤女神が祭られています。
泣澤女神
泣澤女神は、なきさはめの神と読みます。「澤」は「多」(さは)の当て字で、泣くことの多い女神であるとする説があります(大系記)。万葉集に、
哭澤の 神社(もり)に神酒(みわ)すゑ 祈(いの)れども わご王は 高日知らしぬ(二・二〇二)
があります。この神社は上の項で述べた畝尾都多本神社のこととされています。この神社には、神殿はなく、玉垣で囲んだ空井戸がご神体になっており、元々はかつてこの地にあった埴安の池の水神だったと考えられています。このことから、元々「泣澤」は「鳴き沢」つまり「水音のする沢」の意味で、それが「多(さは)に泣く」という意味に解釈され直して、涙によって成ったという伝承が生まれたのではないかとする説があります(記注釈)。また、葬式の時に泣く役を行う「哭女」(なきめ)との関連も考えられそうです。
出雲国、伯伎国、比婆之山
出雲(いづも)は現在の島根県、伯伎(ははき)は現在の鳥取県です。比婆の山はその境にあるとされますが、未詳です。日本書紀一書に、イザナミを、
紀伊国の熊野の有馬村に葬(はぶ)りまつる。土俗(くにひと)、此の神の魂(みたま)を祭るには、花の時には亦(また)花を以て祭る。又鼓(つづみ)吹(ふえ)幡旗(はた)を用て、歌ひ舞ひて祭る。(神代紀・第五段・一書第五)
とあります。熊野という地名や神社名で、紀伊と出雲(熊野坐神社がある)には共通するものが多く、本居宣長も「出雲と木の国とは、遥に隔たりながら、神代にはちかく通ひて聞こゆること多し」と指摘しています。木の国は紀の国のことです。古事記において、オオナムチ(後の大国主)が、兄の八十神たちに追われて、木の国の大屋毘古神のもとへ行き、その助けによりスサノオのいる根の国へ行くことができました。この紀伊と出雲の関係については、大屋毘古神のところで触れます。
葬
葬は、ここでは、かくしまつる、と訓んでいますが、はぶる、はふる、とも訓みます。