イザナミは淡路島、伊予之二名島(四国)、隠岐諸島、筑紫島(九州)、壱岐対馬、佐渡島の後、本州にあたる大倭豊秋津島(おおやまととよあきづしま)を生みます。これらの国々を合わせて大八島国といいます。
古事記と日本書紀本文・一書では、大八島国として挙げられた島々に異同があります。しかし、本州・四国・九州・佐渡島・隠岐諸島の五つはどの所伝でも必ず含まれており、古来から重視されていたことが分かります。
国生みの段・本文
(前の記事の続きです。前記事は1.3.1 国生み(3)です。)
大倭豊秋津島、天御虚空豊秋津根別
大倭豊秋津島、天御虚空豊秋津根別は、大倭豊秋津島(おほやまととよあきづしま)は本州を指します。日本書紀に、神武天皇が腋上(わきがみ)の間丘(ほほまのおか)に登って、国見(くにみ、国の姿を山や丘の上から眺望すること)をして、「狭い国だけれども、蜻蛉(あきづ、トンボのこと)が輪になって飛んでいるような姿の国だなあ」と言ったことから、秋津洲(あきづしま)と呼ばれるようになった、という言い伝えがあります。
腋上は掖上(わきがみ)のことで、現在は駅名として残っています。間(ほほま)丘というのは奈良県御所(ごせ)市本馬(ほんま)のことで、この近くにある小高い丘もしくはその少し南にある国見山のことだという説があります(大系紀)。
また、孝安天皇の代に、葛城の室(牟婁、むろ)の秋津島宮に遷都したという記事があります(古事記・日本書紀)。室とは現在の奈良県御所市室のことです。これは神武天皇が国見をしたと伝えられる御所市本馬と隣り合っており、秋津島宮という名前は、この神武天皇の言葉にちなんで名付けられたのかもしれません。
いずれにしても、このごく狭い地域で始まった「アキヅ」という呼称が、広く本州または日本全体を指すようになったわけです。このような例は、火の邑(ひのむら)または肥伊(ひい)郷から付いた肥国、筑紫国(福岡)から付いた筑紫島(九州)などにも見られます。
天御虚空豊秋津根別の「天御虚空」について
天御虚空豊秋津根別は、あまのみそらとよあきづねわけ、と訓みます。万葉集に、
ひさかたの 天(あま)の御空ゆ 天翔り 見渡し給ひ 云々(五・八九四)
はなはだも 降らぬ雪ゆゑ こちたくも 天(あま)つみ空は 曇りあひつつ(十・二三二二)
などがあり、前者によって「天御空」を「あまのみそら」と訓むことにしたと本居宣長は言っていますが、「あまつみそら」「あめのみそら」とも訓みます。また、彼によると、アマテラスの君臨する高天原になぞらえて、天皇のいる都を天として称えた呼び名ではないかということです(古事記伝)。
なお、似た言葉に「虚空見つ日本の国」(そらみつやまとのくに)という表現があります。これは、日本書紀の神武天皇の条に、ニギハヤヒが天磐船に乗って空を翔け廻り、眺め下ろして、良い国だと選び定めて降り立ったことから言われるようになった表現だと伝わっています。豊(トヨ)は豊秋津島と同じで美称、根(ネ)も美称です。
大八島国
大八島国は、おほやしまくに、と訓みます。古事記では淡路島、四国、隠岐諸島、九州、壱岐、対馬、佐渡、本州の八つで大八島国ですが、日本書紀本文・一書は異なります。以下に表を掲げます:
地名 | 古事記 | 紀本文 | 第一 | 第六 | 第七 | 第八 | 第九 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
オノゴロ島 | 淤能碁呂島 | 馭慮島 | 馭慮島※1 | ||||
アハ島 | 淡島 | 淡洲※1 | 淡洲(2) | ||||
淡路島 | 淡道之穂之狭別島(1) | 淡路洲※1 | 淡路洲(2) | 淡路洲※1 | 淡路洲(1) | 淡路洲(1) | 淡路洲※1 |
四国 | 伊予之二名島(2) | 伊予二名洲(2) | 伊予二名洲(3) | 伊予洲(2) | 伊予二名洲(3) | 伊予二名洲(3) | 伊予二名洲(3) |
隠岐諸島 | 隠伎之三子島(3) | 億岐洲(4)※2 | 億岐三子洲(5) | 億岐洲(4)※2 | 億岐洲(4) | 億岐洲(6)※2 | 億岐三子洲(4) |
九州 | 筑紫島(4) | 筑紫洲(3) | 筑紫洲(4) | 筑紫洲(3) | 筑紫洲(6) | 筑紫洲(4) | 筑紫洲(6) |
壱岐 | 伊伎島(5) | 対馬嶋※3 | 対馬洲(8) | ||||
対馬 | 津島(6) | 壹岐嶋※3 | 壹岐洲(7) | ||||
佐渡 | 佐度島(7) | 佐度洲(5)※2 | 佐度洲(6) | 佐度洲(5)※2 | 佐度洲(5) | 佐度洲(7)※2 | 佐度洲(5) |
本州 | 大倭豊秋津島(8) | 豊秋津島(1) | 大日本豊秋津島(1) | 大日本豊秋津島(1) | 大日本豊秋津島(2) | 大日本豊秋津島(2) | 大日本豊秋津島(1) |
北陸 | 越洲(6) | 越洲(7) | 越洲(6) | 越洲(8) | |||
周防大島? | 大島※4 | 大洲(7) | 大洲(7) | 大洲(8) | |||
児島半島 | 吉備児島※4 | 吉備子洲(8) | 吉備子洲(8) | 子洲(8) | 吉備子洲(5) | 吉備子洲(7) | |
小豆島(しょうどしま) | 小豆島(あづきしま)※4 | ||||||
姫島? | 女島(ひめじま)※4 | ||||||
五島列島 | 知訶島※4 | ||||||
男女群島 | 両児島※4 | ||||||
その他 | 処処の小嶋※3 | ||||||
日本列島 | 大八島国 | 大八洲国 | 大八洲国 | ||||
備考1 |
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備考2 |
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数も島も順番もまちまちですが、本州・四国・九州・佐渡島・隠岐諸島の五つはすべての所伝で登場し、大八島国に数えられています。
大八島の「八」について
もともと大八島の八は数が多いことを示すもので、八という数のことではありませんでした(八百万、八重垣など)。そのため、八の代わりに八十(やそ)を用いることもあり、鎮火祭祝詞に「神伊佐奈伎・伊佐奈美の命 妹(いもせ)二柱 嫁継ぎ給ひて 国の八十国・島の八十島を生み給ひ」と出てきます。
しかし、古事記や日本書紀の本文・一書では日本列島の島々の数をこの八という数字に合わせようとしており、それぞれの伝承を記した人たちの解釈の違いによって異同が生じたものと考えられます。
推測ですが、彼らが八という数字に合わせようとした理由は、おそらく語りの自然さのためだったのではないでしょうか。八よりもいくつか多い程度の数(記では十四、紀本文では十)の島を列挙した後に「大八島国という」では座りが悪く、だからと言って何十もの島々を列挙したあげくに「多くの島があるので大八島国という」などと説明するのは、冗長に過ぎるようです。
いずれにしても、伝承によって八つの島が異なることに、特別な理由はないと考えるのが自然だと思います。
古代日本人の日本の国土に対する意識
それでも国生み神話においては、どの伝承においても本州・四国・九州・佐渡島・隠岐諸島の五つは必ず入っていることから、当時の人々がこの五つが日本の中心的な国土をなすと考えていたことが分かります。
佐渡や隠岐は古くから流刑地として知られており、彼らが日本の国土を大雑把にとらえるときに、中心としての本州・四国・九州と、辺境としての佐渡・隠岐という観念があったものと考えられます。
また、淡路島も特別な扱いをされているようです。この島は、胞(え、胞衣)または大八島国の一つとしてすべての所伝で言及されており、さらに一書(第一)以外では、すべて最初に出てきます。
八十島祭、生島神、足島神
実は、この国生み神話の歴史的背景として、八十島祭というものがあります。八十島祭というのは、九〜十三世紀にかけて、大嘗祭の翌年に難波津(現在の大阪市辺りにあった港)で行われた、天皇一代に一度限りの祭式で、延喜式の臨時祭の条によると、生島巫(いくしまのかむなぎ)らを御巫として、難波津に赴いて執り行うとされています。生島巫が難波津の海辺で御衣筥(天皇の着る衣の入った箱)を振って大八島国たる八十島の霊を衣に依りつかせることで、新天皇の身体にその霊を付着させたのだそうです。このようにして新天皇は日本の国を統治していくための霊力と資格を得たのでしょう。
この生島巫とはどんな存在だったのでしょうか。同じ延喜式の神名帳によると、宮中の三十六座の神々のうち、生島巫祭神として生島神・足島神の二座が挙げられており、また、同じく延喜式の六月月次祝詞には「生島の御巫の辞竟奉皇神等の前に白く 生国・足国と御名者白て辞竟奉者 皇神の敷坐島の八十島者 谷蟇の狭度極 塩沫の留限り 狹国者廣く 嶮国者平く 島の八十島堕事無く 皇神等寄し奉故」とあります。
生島神・足島神は別名を生国魂神(いくくにたまのかみ)ともいいます。この国魂とは各地の国々・島々に宿るとされた神霊のことで、この神が八十島(全国各地)の国魂を統合した神格とみなされていたことがこの祝詞からも分かります。
また、このことと、上述の鎮火祭祝詞の「神伊佐奈伎・伊佐奈美の命 妹二柱 嫁継ぎ給ひて 国の八十国・島の八十島を生み給ひ」と合わせると、この八十島祭が国生み神話と関係があることがうかがえます。難波津から海を見ると、まず目に入ってくるのは淡路島ですが、この素朴な事実が国生み神話で淡路島が最初に登場してくることの理由であろう、という指摘があります(記注釈)。
この生島神・足島神は、もともとは難波津周辺に生活する海人たちが、豊漁や海上安全を祈願して瀬戸内海の島々を神として祭ったものであって、それが「大八洲之霊」(古語拾遺)として皇室の祭祀に取り入れられて成立したのが八十島祭なのではないかと考えられています。
難波津に暮らす海人たちにとっては、島々の中でも淡路島はいちばん身近で特別なものだったに違いありません。彼らの信仰が皇室祭祀や神話に取り入れられた後も、彼らのそのような意識は受け継がれ、それが淡路島が最初に生まれたとする観念に反映されたのかもしれません。