さて、こうして、速須佐之男命はやすさのおのみことは宮を造るための土地を出雲の国に求めた。そして須賀の地にたどり着いて、「この地にやって来て、私の心はすがすがしい」と言って、その地に宮を造って住んだ。それで、その地を今、須賀という。この大神が初めに須賀の宮を造った時に、そこから雲が立ち上ったので、御歌を詠んだ。その歌は、
  八雲やくも立つ  出雲八重垣やえがき  妻籠つまごみに  八重垣作る  その八重垣を
 そして、かの足名椎神あしなづちのを呼んで、「あなたは私の宮の長になってください」と言い、また稲田宮主須賀八耳神いなだのみやぬしすがのやつみみのの名を与えた。

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(前の記事の続きです。前記事は1.7.5 須賀の宮(1)です。)

夜久毛多都

夜久毛多都は、八雲立つ、です。「出雲」にかかる枕詞です。

「八雲」は「彌雲」(彌はいよいよ・ますますの意)で、多くの雲が幾重にも湧き立つ、という意味です。(ただし、橘守部は「七重八重」がどちらも幾重という意味で、「八重」が「彌重」なら「七重」は何なのか、と疑問を呈しています「稜威言別」)。

一般に「出雲」の枕詞であるとされていますが、この場面で詠まれたことについて宣長は、

彼雲の立ち騰(のぼ)るを、打見給へる随(まま)に詔へる御詞なり。

と解しています。

この歌については、スサノオの説話と無関係に成立したもの(一般に新婚の夫婦の住まう新居をほめる歌)が、この場面に取り入れられたものとする説があります。

しかし、この歌の内容自体は、まず「八雲立つ」と「出雲」をほめ、さらにその枕詞が「八重垣作る その八重垣を」と新妻との新居の宮をほめる言葉を導き出すことで、スサノオたちの前途を祝福するものとなっており、歌と物語の内容が不可分に結びついています。

したがってまた、直前の「其地(そこ)より雲立ち騰(のぼ)りき」の一文は、その物語と歌を結合させる呼び水の働きをしていると言えます。「八雲立つ」の他の用例としては、

やくもたつ 出雲建が佩ける太刀 黒葛(つづら)多(さは)巻き さ身無しにあはれ (崇神紀六十年)

出雲と号(なづ)くる所以は、八束水臣津野命(やつかみずおみつののみこと)、詔りたまひしく、「八雲立つ」と詔りたまひき。故、八雲立つ出雲といふ。(出雲国風土記)

などがあります。風土記の例は、いわゆる国引き詞章の八束水臣津野命の台詞、

「八雲立つ出雲の国は、狭布(さの)の稚国(わかくに)なるかも」
(出雲の国は幅の狭い布のように小さく幼い国だなあ)

を指します。

このように「やくもたつ」と「いづも」は古代人の意識の中で緊密に結びついている二つの言葉でしたが、問題は「出雲」という表記についてです。すなわち、

  • 「出雲」という漢字表記がまずあった上で、その土地をほめる意味で「八雲立つ」という枕詞が生まれたのか
  • 「やくもたつ いづも」という表現の方が先にあって、枕詞に引かれるようにして「いづも」に「出雲」の漢字をあてるようになったのか

はにわかには決定しがたいようです。

なぜこのようなことが問題になるかと言うと、「八雲立つ」に類似の枕詞に、「やつめさす(八藻さす)」「やくもさす」があるからです。倭建命(やまとたけるのみこと)の歌、

やつめさす 出雲建が 佩ける太刀 黒葛多巻き さ身無しにあはれ (景行記)

万葉集の、溺れ死にし出雲娘子を吉野に火葬る時、柿本人麻呂が作った歌、

八雲刺す 出雲の子らが 黒髪は 吉野の川の 沖になづさふ (三・四三〇)

これらの枕詞はいずれも「出雲」にかかります。この「さす」は「充ちる」「勢いよく伸びる」といった意味があります。

「やつめさす」については、「玉藻鎮石(たまものしづし)出雲人祭」(崇神紀六十年)の例から、「玉鎮石」がイヅにかかる言葉であり、したがって「やつめさす=八芽(藻)さす」つまり「多くの芽(藻)が萌え出る」の意ではないかとする説があります

この説に従えば、「やつめさす」が「出雲」の漢字表記に関係するとは考えにくく、この場合は、「いづも」は「出藻」または「厳藻」と解されていることになります。

この説に立つと、まず漢字表記よりも先に「いづも」という音があり、この「いづも」という言葉を、

  • 八雲立つ、を冠する場合には「出雲」
  • やつめさす、を冠する場合には「出藻」または「厳藻」

という漢字を当てて当時の人々は理解していた、ということになります。

(ただし、「いづも」の音が先に立ったとしても、そこから「出雲」という漢字表記が出てきてから枕詞が「八雲立つ」となったのか、それとも「八雲立つ」という枕詞が先にできてから「出雲」という漢字表記が出てきたのかは、依然としてはっきりしません)

一方、「やくもたつ 出雲建が佩ける太刀」(崇神紀六十年)、「やつめさす 出雲建が 佩ける刀」(景行記)の二つの比較から、単純に「やつめさす」は「やくもたつ」の音韻変化であるとする説もあります。

「八雲刺す」については、「八雲立つ」「八芽(藻)刺す」の表現を踏まえた上での、柿本人麻呂による造語であると考えられています。その意図を記注釈は、

かりに後の歌を「八雲立つ、出雲の子らが、云々」としてみると、「立つ」の音が強すぎて挽歌(筆者注:死者を悼む歌)の雰囲気が微妙に崩れてしまう。タツが勢いよく立ちのぼる気配を示すのにたいし、サスにはふさがる、とざすという気配が感じられる。人麿はそのことに気づいていたに違いない。

と解釈しています。アマテラスが石屋戸に「さし」こもった、の「さす」は「閉ざす」の意味でした。

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伊豆毛夜幣賀岐

伊豆毛夜幣賀岐は、出雲八重垣、です。

ここでの出雲は湧き出る雲の意です。「其地(そこ)より雲立ち騰(のぼ)りき」を受けて歌を詠んだことによりますが、単に地名であるとする説もあります。

八重垣は幾重にも重なっている垣という意味ですが、宣長は、

幾重もあるを云ふ、但し此(ここ)は、実(まこと)の垣を云には非ず、八重雲の立ち出たるを、垣とは云ひ成し給へるなり、雲霧は、彼方此方(こなた)を隔つること垣に似たり。

と述べ、八重垣を本物の垣ではなく、御殿を囲むようにして雲が幾重にも重なって立ち上っている様子を垣に喩えたものと解しています。一方で、橘守部は、

閨(ねや)の隔ての絹垣・綾垣を指し給へるなり・・・此を雲より連け給ひしは、雲を旗雲とも布雲ともよめるやうに、雲の形状の栲(たへ)に似たるを以てなり。(稜威言別)

と、閨(寝室)を区切る絹垣・綾垣のことであるとしています。

上代の御殿は戸や障子で部屋を区切るという構造がなく、寝室は絹などで仕切っていました。八千矛神の歌にある「綾垣の ふはやが下に」の綾垣がそれです。

雲は旗雲・布雲と言われるように、しばしば布や織物に喩えられ、ここでも「八雲立つ」が絹垣・綾垣を連想させたということです。

都麻碁微爾

都麻碁微爾は、妻籠(ご)みに、です。妻をこもらせるために、の意です。

書紀では「妻ごに」となっています。動詞「こむ」は初め上二段活用だったのが、のちに下二段活用に変化したようです。万葉集に、

嬬隠(つまごも)る 屋上(やかみ)の山の 雲間より 渡らふ月の 惜しけども (二・一三五)

とあります。「つまごもる」は「屋」の枕詞で、新嘗(新穀を捧げて神を祭る)や出産などの時に、妻が屋にこもって物忌みをしたことによるものと考えられます。このように、古くは妻という存在は屋にこもる・または屋にこめるものという観念・印象があったものと見えます。

夜幣賀岐都久流

夜幣賀岐都久流は、八重垣作る、です。こちらは本物の垣のことを表しています。「八重垣」は実際に幾重も垣を張り巡らせるということではなく、垣をほめて言ったものです。

延喜式の践祚大嘗祭に、「柴で垣を作り、その八重垣を桙(ほこ)で押す」という記述が見えますが、やはりこれはほめ言葉であって、幾重にも廻らせるものではなかったようです。

「八重垣作る」はここでは新居を造ることを意味します。上でも触れましたが、この歌はもともとは結婚の際の新居を寿ぐ歌だったものが、このスサノオの物語に取り入れられたものと考えられています。

曾能夜幣賀岐袁

曾能夜幣賀岐袁は、その八重垣を、です。

「八重垣作る その八重垣を」と二度繰り返すことについて、宣長は、

さて如此(かく)二度上の詞を返して云ふは、古への歌の常なり・・・是れ歌謡の自然(おのづから)の勢にて、折り返せば其の情(こころ)深くなることぞかし。

と説明しています。

最後の「を」ですが、第四句を繰り返して目的語を表す格助詞(八重垣作る)であるとする説と、感動助詞であるとする説があります。

「八雲立つ 出雲八重垣」で雲をほめ、「妻ごみに 八重垣作る」で新居ぼめに転じ、さらに最後に「その八重垣を」と三度目の八重垣が出てきて閉じ、古歌の趣きを漂わせています。

なお、以上の説明は、この歌がもともとは新婚の際の新居をほめる歌であったのがこの物語に取り入れられたものとしてなされていますが、古事記伝の説くように、八重垣を実際の垣ではなく、一貫して雲の比喩と見る見方もあります:

今吾れ須賀の宮を造る時しも、八重雲の起(たつ)よ、此の立ち出る雲、八重垣を成せり、吾夫妻隠らむ此の宮の料に、雲も八重垣を作ることよ。

は、おびと、と読みます。大人(おほひと)の意です。首長、長官を指します。

この意味に用いた例としては、「村に長無く、邑に首(おびと)勿(な)し」(景行紀)、「県邑に首を置(た)てむ」(成務紀)、「縮見屯倉(みやけ)首」(清寧紀)などの例があります。

一方、忌部首(いむべのおびと)など豪族の氏の下につくものは、姓(かばね、豪族の地位を表す称号)の一つです。

書紀本文では、スサノオが大己貴神を生んだ後に、「吾が児の宮の首は、即ち脚摩乳・手摩乳(あしなづち・てなづち)なり」と言ったとあり、古事記の伝えとは異なっています。

稲田宮主須賀之八耳神

稲田宮主須賀之八耳神は、古事記では足名椎に与えられた名ですが、書紀本文では「号(な)を二の神(注:アシナヅチ・テナヅチ夫妻)に賜ひて、稲田宮主神と曰ふ」とあります。また紀一書(第一)には初めから「稲田宮主簀狭之八箇耳(いなだのみやぬしすさのやつみみ)が女子、号は稲田媛」とあり、一書(第二)ではこれが妻の名とされています。

伝えはそれぞれ食い違っていますが、すべて一貫して「稲田」とあるのが注目されます。櫛名田比売の項でも述べましたが、足名椎の親である大山津見神は山の神でもあり、農の神でもありました。

クシナダヒメは「奇しき稲田の姫」であり、さらにその親が「稲田」を冠する神名を与えられています。

「八耳」は語義未詳とされますが、「みみ」は「み」(やまつみ、わたつみの「み」)を二つ重ねたもの(古事記伝)であることから、記注釈は「ヤツミミの名があるのは、ヤマツミの子だから」としています。

このヤマタノオロチ退治の段は、「八」という数字が多く出てきました。八稚女、八俣のをろち、八頭八尾、谿八谷峽八尾、八門、八佐受岐、八鹽折酒、八雲立つ、八重垣、そしてここに八耳神です。

さらに次の段以降も、八島士奴美神、八千矛神、八十神、八上比売と続いていきます。この事実について、記注釈は、

八の数は古事記のもっとも好むところだが、ここでは八俣のオロチの「八」にひかれ、それが語りごとのリズムとして増殖していったもので、天の岩屋戸の段で「天」という語が頻用されたのと同断であろう。

と説明しています。同じ言葉や句形を何度も繰り返すのは、古代の口承文芸に特有の形式であることは、これまでも何度か触れてきたとおりです。