この大山津見おおやまつみの神と野椎のづちの神の二はしらの神が、山と野を分け持って、生んだ神の名は、天之狭土あめのさづちの神、次に国之狭土くにのさづちの神、次に天之狭霧あめのさぎりの神、次に国之狭霧くにのさぎりの神、次に天之闇戸あめのくらどの神、次に国之闇戸くにのくらどの神、次に大戸惑子おおとまとひこの神、次に大戸惑女おおとまとひめの神。天之狭土神より大戸惑女神まで合わせて八はしらの神である。

クリックで訓読文

此の大山津見おほやまつみの神、野椎のづちの神の二はしらの神、山野にりて持ち別けて、生みませる神の名は、天之狭土あめのさづちの神、次に国之狭土くにのさづちの神、次に天之狭霧あめのさぎりの神、次に国之狭霧くにのさぎりの神、次に天之闇戸あめのくらどの神、次に国之闇戸くにのくらどの神、次に大戸惑子おほとまとひこの神、次に大戸惑女おほとまとひめの神。天之狭土神より大戸惑女神までせて八神やはしら

クリックで原漢文

此大山津見神、野椎神二神、因山野持別而、生神名、天之狹土神、【訓土云豆知。下效此。】次國之狹土神、次天之狹霧神、次國之狹霧神、次天之闇戸神、次國之闇戸神、次大戸惑子神、【訓惑云麻刀比。下效此。】次大戸惑女神。【自天之狹土神至大戸惑女神、八神。】

クリックで言葉

《言葉》

  • 【天之狭土神、国之狭土神】あめの・くにのさづちの神 土の神
  • 【天之狭霧神、国之狭霧神】あめの・くにのさぎりの神 霧の神
  • 【天之闇戸神、国之闇戸神】あめの・くにのくらどの神 峡谷の神
  • 【大戸惑子神、大戸惑女神】おほとまとひこ・おほとまとひめの神 未詳、道に迷う意か
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ここも速秋津日子・比売の二神の神生みの段と同じく、これらの神々を生んだのが大山津見神と野椎神の二神なのかイザナギ・イザナミの二神なのか意見の分かれるところですが、ここでは前者の説を採って訳しています。水戸神である速秋津日子・比売の二神が河川・海・水に関係する神々を生んだのに対して、それぞれ山と野の神である大山津見神と野椎神の二神が、山野に関係する神々を生みます。

因山野持別而

因山野持別而は、ここも速秋津日子・比売の段の「因河海持別而」と同じです。大山津見神が山を、野椎神が野を分担して、という意味です。

天之狭土神、国之狭土神

天之狭土神、国之狭土神は、それぞれ、あめのさづちの神、くにのさづちの神、と読みます。ここも速秋津日子・比売の段と同じで「天」と「国」に特別な意味はなく、神名を対にするための一種の接頭辞であると考えられます。

本居宣長は「さづち」の「さ」を「坂」の意味に取り、「さ」+「づ」(の)+「ち」(神霊)で「坂の神」であるとしました。

この神は、日本書紀の一書で、国常立尊(くにのとこたちのみこと)に続いて現れる国狭槌命(くにのさつちのみこと)と名前が共通します。この「さつち」の「さ」は「早苗」「五月」「「早乙女」の「さ」(農耕・神稲を表す)であり、「さ」+「つち」で「農耕のための大切な土」という意味になります。

そのように解釈すると、国狭槌尊は「農耕のための土の神」であることになります(大系紀補注)。

一方で「さ」は、農耕に限らず、広く使われる接頭辞でもあります。例えば、狭霧、狭衣、小百合、早蕨、小夜などです。次の二柱の狭霧神と合わせると、ここでは「さ」を稲作に限定せず、一般的な接頭辞「さ」として、「土の神」と取るのがよいかもしれません。

天之狭霧神、国之狭霧神

天之狭霧神、国之狭霧神は、それぞれ、あめのさぎりの神、くにのさぎりの神と読みます。本居宣長は「さぎり」の「さ」を「坂」、「ぎり」を「限り」とし、これを「境界の神」としていますが、ここでも「さ」を一般的な接頭辞として「霧の神」と取るのが妥当だと思われます。「狭霧」は現代でもそのまま使われる言葉です(接頭辞「さ」+「霧」)。

天之闇戸神、国之闇戸神

天之闇戸神、国之闇戸神は、それぞれ、あめのくらどの神、くにのくらどの神と読みます。本居宣長はこの「くら」は「谷」の意味であり、「闇」は借り字(意味ではなく、音だけを借りた字)であるとします。「股ぐら」の「くら」もこの意味です。大系紀補注によると、朝鮮語のkol(谷)、満州語のholo(谷)と同系の語と考えられるようです。他に闇淤加美(くらおかみ)(後出)、闇山祇(くらやまつみ)、闇罔象(くらみつは)(神代紀)などの例があります。

「ど」は「と」(処)で場所の意味で、「くらどの神」は「谷の所の神」という意味になります。ただし、この「闇」を借り字ではなく正字(音ではなく、意味を表している漢字)とする解釈もあり、それは宣長自身も述べています(後述)。

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大戸惑子神、大戸惑女神

大戸惑子神、大戸惑女神は、それぞれ、おほとまとひこの神、おほとまとひめの神と読みます。記伝によると、「とまと」は「とをまりど」(山のたわんで低いところ)のつづまったもので、「おほ」+「とまと」+「ひこ・ひめ」となります。「惑子」「惑女」と書くのは、たまたま「惑」が「まとひ」と訓めるので、その「ひ」を借りてこういう書き方になったとしています。

神名の漢字は意味なのか、音なのか

さて、天之狭土神から大戸惑女神まで、八柱の神々が誕生しました。本居宣長は、上述のように、これらの神々の名前を借り字として、つまり漢字の意味ではなく、音に着目して分析しました:

  • 「土」=「つ」(の)+「ち」(神霊)
  • 「霧」=「ぎり」(かぎり、境界のこと)
  • 「闇」=「くら」(谷のこと)
  • 「戸惑」=「とまと(ひ)」(とをまりど、山のたわんで低いところ)

しかし、その後に、今度はこれを正字と見て、つまり漢字の意味に着目して「又思ふに、狭土狭霧の狭は、多く詞の上に加る辞、土も霧も闇も惑も、皆字の意にて、土より霧の發(たち)、その霧によりて闇(くら)く、闇きによりて惑ふと云意に名づけしか」とも述べています(記伝)。

この場合は、連想によって次々と神が立ち現われているわけです。山野に踏み込んだ人々が実際に遭遇する光景が目に浮かぶような、見事な連想ではないでしょうか。このように、記紀において、神名の漢字を借り字とみるか正字とみるか、それが複合しているとみるかは、にわかに決しがたい問題で、個別的に分析を加える必要があります。例えば、闇戸神(くらどの神)は「谷(=くら)の神」であり、同時に「霧によって生じたクライトコロ(=くらど)の神」でもあると言えることからも、その両義性、曖昧さの一端がうかがえます。

自天之狭土神至大戸惑女神八神

自天之狭土神至大戸惑女神八神は、以上八柱の神々は、山野の神である大山津見神と野椎神の子たちです。次の段では、ふたたびイザナギ・イザナミの生む神々が列挙されます。