古事記の読み方

外から見る・内から見る

古事記に限らず、ある一つの書物に対しては、さまざまなアプローチが考えられますが、大雑把に言って、その作品を「外から見る」見方と「内から見る」見方に大別されます。

「外から見る」とは、どういう経緯でこの作品が生まれたのか、その背景、作者の意図など、作品成立の外的要因に着目してその作品を理解していく読み方です。

「内から見る」とは、その作品の叙述そのものにいわば「寄り添って」読み解いていくやり方です。作品を外的要因から切り離して、物語そのものとして鑑賞する読み方、とも言い換えられます。

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「外から見る、内から見る」具体例

具体例として、スサノオのヤマタノオロチ退治のくだり挙げましょう。

スサノオという神が、高天原(たかまのはら)から追放された後、出雲国の鳥髪の地に降り立ち、策を用いてヤマタノオロチをやっつけ、そのオロチに食べられようとしていたスセリビメを助け、妻とします。そして新居を求めて同じ出雲国の須賀の地にたどり着き、「この地にやってきて、私の心はすがすがしい」とつぶやきました。それでその地は須賀(すが)と呼ばれるようになりました。さて、須賀の地に宮を造った時に、雲が立ち上がったので、それを見たスサノオは、歌を詠みました。

八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を

そしてスセリビメの父であるアシナヅチは、その須賀の宮の長となりました、云々。

以上がこの物語の要約です。さて、この「八雲立つ」の歌ですが、これはこの物語に即して素直に読めば、

「今須賀に宮を造る、まさにこの時に、八重雲が立った。あの雲はそのまま八重垣だ。私たち夫婦の籠るこの宮のために、雲までもが八重垣を作ったのだ」

と、スサノオが自分たち夫婦の前途をみずから予祝する歌いぶりだと取れます。

たまたまもくもくと湧いてきた雲を見てとっさに着想を得た、見事な即興歌と言えます。古今和歌集の仮名序で、紀貫之がスサノオを和歌の始祖とみなしたのも、もっともなところです。

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舞台裏

ところが実際には、この「八雲立つ」の歌は、もともとは一般に新婚の夫婦の住まう新居を褒めたたえる古歌であり、スサノオの物語とは無関係に成立したものであると考えられています。

古代の人々が新婚の夫婦たちの前途を祝して歌い継いできたであろう定番の歌謡(現代で言えば、結婚式のときの結婚行進曲くらい定番だったのかもしれませんね)が、物語の要請上からこの場面に取り入れられたものであると思えば、また一味違った印象を受けることでしょう。

これが上に述べた「外から見る」読み方の一つの典型です。この読み方は往々にして、舞台裏を知ってしまうことによる叙述の無味乾燥化を伴いますが、一方では一つの叙述を多面的、多層的に捉えることによる読みの深化をもたらします。

その一方で、そのような成立の事情にも関わらず、この歌と物語は不可分に密接に結びついており、この歌は、まるでこの物語のために作られたかのように、この位置にぴったりとはまっています。事実、そのような事情を知らないでこの歌を見れば、先に述べたように、ほとんど疑いもなく物語から自然に生まれた歌であると感じることでしょう。

そしてさらに大事なことは、(客観的事実が何であれ)そのように感じ、そうであると見なしても構わないということです。

それが上に述べた「内から見る」読み方という意味です。この読み方の特徴は、「外から見る」読み方とちょうど表裏一体を成しています。情緒や感覚のレベルで作品に深く関わることができる一方で、物語の叙述上の整合性のみを重んじるあまり、偏狭な解釈に陥りやすく、また外部からの知見を援用すれば容易に解決する箇所も、不明であるとして黙殺せざるをえない窮屈さを伴います。

どちらを取るか

結論を言うと、どちらの読み方にも偏るべきではない、ということです。「外から見る」読み方は、一般に一個の文学作品を広く現実の社会や歴史や自然といった成立環境と結び付けることで、作品に対する格段に広く深い視界をもたらしますが、それら現実の恣意的な適用によって(つまり都合のいい資料ばかり引っ張って来て)、手前勝手な解釈に基づく、その人独自の新しい物語を図らずもねつ造してしまう恐れがあります。

そして、「内から見る」読み方は、知識や論理を超えたところで、その物語の叙述が暗示する、世界や人間や人生の深淵な本質に触れることのできる可能性をもたらしますが、物語内の整合性に囚われるあまり、物語としては首尾一貫してはいるが、客観的事実とは乖離した解釈・誤読に陥ってしまう恐れがあります。

要するに、いずれの読み方も、慎重にならなければ、いわゆるトンデモな解釈を招きやすいので注意が必要だということです。

ですので、筆者の個人的な意見としては、古事記も一つの物語であるならば、「内から見る」読み方をベースにしながらも、つねに「外から見る」読み方による検討を加えることで、軌道を外れない(大きな誤読をしない)ように注意しながら読み進めていくというのが妥当ではないか、というところに落ち着きます。ここは人それぞれにスタンスがあるところだと思います。