そして、その先に生まれた神、多紀理毘売命たきりびめのみことは、胸形むなかた奥津宮おきつみやに鎮座している。次に市寸島比売命いつきしまひめのみことは、胸形の中津宮に鎮座している。次に田寸津比売命たきつひめのみことは、胸形の辺津宮へつみやに鎮座している。此の三柱の神は、胸形君むなかたのきみらが斎き祭っている三座の大神である。

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アマテラスがスサノオの十拳剣をさがみにかんで、吐き出した気吹の狭霧に成った三柱の女神は、アマテラスの「詔り別け」によって、スサノオの子とされました。その三女神は胸形(宗像)の地に鎮座します。

胷形

胷形は、むなかた、と読みます。胷は胸の異字体です。現在の福岡県宗像市にあたります。倭名抄巻五に筑前国宗像(牟奈加多 )とあります。名前の由来として、次のような伝承があります(宗像大菩薩御縁起):

西海道風土記云、宗像大神自天降居崎門山之時、以青玉置奧宮之表、以八尺紫玉置中宮之表、以八咫鏡置邊宮之表、以此三表、成神躰形、納置三宮、即隱之。因曰身形郡。【同風土記云、一云、天神之子有四柱。兄三柱神教弟大海命曰、汝命者、為吾等三柱御身之像、而可居於此地。便一前居於奧宮、一前居於海中、一前居於深田村高尾山邊。故號曰身像郡云云】後人改曰宗像。共大海命子孫、今宗像朝臣等是也云云。

西海道風土記とはおそらく筑前国風土記のことと考えられます。この出典である「宗像大菩薩御縁起」(宗像大社の社伝)は十五世紀に書写されたもので、八世紀に編纂された古風土記のオリジナルの記事と素直にみなすには問題がありますが、「むなかた」の名の由来を記した古記録として代表的なものなので掲げました。現代語に訳すと、

西海道風土記によると、宗像大神が天から降って崎門山(さきとやま)に居た時、青色の玉を奥宮に、紫色の玉の緒を中宮に、八咫鏡を辺宮に置き、これら三つの印を躰形みのかた、ご神体)として、三つの宮に納めて、身を隠した。それで身形(みのかた)郡という。後に人はこれを改め宗像といった。大海命の子孫は、今の宗像朝臣などになっている、云々」

となります。ここで、「大海命」なる神について、【】内の部分でその来歴が述べられています:

【ある伝によると、アマテラスには四柱の子がおり、姉である三柱の神(宗像三女神)が妹である大海命に、「あなたは、私たちのために、この地に留まり、私たち三柱の御身の像(みみのかた)の一つは奥宮に、一つは海中に、一つは高尾山のふもとに鎮座させ、これを斎き祭りなさい」と言った。それで身像(みのかた)郡という、云々】

これは「むなかた」の由来の別伝になっており、いずれにせよ、宗像大神(三女神)の「みのかた」(ご神体)が由来になっていると説いています。

もっとも、これは神との関わりから地名の成り立ちを説明するという、風土記類によくあるパターンの地名由来説話で、額面どおり受け取るわけにはいかなさそうです。他にも、地形に基づく「空潟」「沼無潟」から来たとする説、海部の人々の胸の入れ墨から「胸形」となったとする説、など、さまざまな説があります。

奥津宮

奥津宮は、おきつみや、と読みます。福岡県宗像市の沖ノ島にある宗像大社の沖津宮のことです。沖ノ島は玄界灘に浮かぶ、面積約一キロ平米の、平野部のほとんどない、常緑樹の原生林に覆われた孤島で、島全体がご神体とされ、古くから信仰の対象・祭祀の場となってきました。

荒波に囲まれた絶海の孤島であり、また宗教上の理由により上陸が厳しく制限されてきたため、古墳時代を中心とした縄文時代以降の数々の祭祀遺跡がほとんど手つかずで遺されており、二十世紀に入ってからの発掘調査で、島内の二十三か所の祭祀遺跡から十万点を超える鏡・装身具・馬具・土器などの遺品が発掘されました。中国、朝鮮、ペルシャなどから渡ってきた、唐三彩・黄金製の指輪・カットグラスなどのさまざまの豪華な遺品を含み、約八万点が一括で国宝指定され、他のものもすべて重要文化財に指定されました。

このため、沖ノ島は「海の正倉院」とも呼ばれています。この島は現在でも神の島とされ、女人禁制が固く守られており、島に上陸する人は、神職を含め、海に沐浴し、潔斎をすることが掟として定められています。

また、上陸した後も、一木一草一石一握りの砂といえども持ち出すことは禁じられ、さらに島についてのことは他言してはならないとされ、「不言様」(おいわずさま)と呼ばれています。また、この島には手つかずの原生林が残ることから、その植生は国の天然記念物に指定され、その歴史的価値から、島全体が国の史跡に指定されています。

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中津宮

中津宮は、同じく宗像市の玄界灘に浮かぶ大島(他の大島と区別するため筑前大島とも呼ばれます)にある宮で、現在も同じ名でよばれています。宗像海岸の神湊から西北に約十一キロの位置にある、面積約七・五キロ平米の島です。さらに西北に四十九キロの位置に沖ノ島があります。住民がいて、その大半は玄界灘を漁場とする漁師およびその関係者です。島の北端には沖津宮の遥拝所があり、晴天時には遥か彼方に沖ノ島を望むことができます。

辺津宮

辺津宮は、へつみや、と読みます。こちらは九州本土の宗像市田島にあります。神湊から南東に約四キロの位置にあります。この辺津宮、神湊、大島、沖ノ島はほぼ一直線上にあり、さらに延長線上には朝鮮半島があります。これら三座を合わせたものが宗像大社です。

胸形君

胸形君は、「むなかた」には、胸形・胸方・胸肩・宗像・宗形・身形など、さまざまな漢字が当てられています。胸形君は筑前国宗像郡の地に古くから本拠を構える土豪で、君は古い姓(かばね)です。胸形君の祖である徳善の娘・尼子娘が天武天皇との間に高市皇子をもうけ、皇子は壬申の乱で軍を率い、乱後も天武天皇に仕え、持統政権下でも太政大臣となるなど、国政の中枢で重きをなしました。胸形君は、天武十三年に制定された八色(やくさ)の姓のうち、眞人(まひと)に次ぐ姓である朝臣(あそん)を賜りました。

宗像三女神は、古くから海上交通をつかさどる神として信仰を集めてきました。書紀一書では、日神に「道中に鎮座し、天孫を助け、天孫のために祭られよ」と命ぜられた(第一)、「海北道中に鎮座し、道主貴(ちぬしのむち)と呼ばれた」(第三)、などの伝承があります。

この「道中」「海北道中」とは、上述の沖ノ島や大島のある玄界灘を含む九州と朝鮮の間の海路を指すと考えられています。大和朝廷と朝鮮との関わりが強くなるにつれてこの神の神威も高まり、第一の一書にもあるように、この神は土豪の胸形君のみならず、朝廷からも篤く信奉されるようになりました。

雄略紀九年の条に新羅討伐の際にこの神を祭ったことが見え、また三代実録貞観十七年二月の条の宣命に、宗像大神が神功皇后の新羅征伐に力を貸したという記述があります。

沖ノ島の祭祀遺跡に見える豪華な遺品の数々、そして神郡を持つことを特別に許可されたこと(他には伊勢、鹿島、香取、安房、熊野・杵築(出雲)、日前・国懸(紀伊)の六社のみ)などと合わせても、この神が朝廷から格別に重要視されていたことが分かります。

もともと皇室の神ではない(地祇・国津神)という出自にもかかわらず、記・紀においてアマテラスとスサノオのうけいにより誕生したという特別な扱いをされているのも、そのような当時の情勢が反映された結果と見ることができます。