神生みの最後に、三貴子を生んだイザナギは大いに喜び、この三柱の神に世界分治の事依さし(委任)を行います。そしてアマテラスは高天原を、ツクヨミは夜之食国を、スサノオは海原を治めることとしました。

ツクヨミに関しては、古事記・日本書紀ともにほとんど活躍の場がありません。一方、アマテラスとスサノオは、今後の古事記の物語の展開において中心的な存在として振る舞います。

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スサノオが三貴子に事依さしをする段・本文

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三貴子

三貴子は、みはしらのうづのみこ、と読みます。みはしらのたふときこ、とも読みます。「貴」は普通、「たふとし」と訓みますが、古事記伝では、日本書紀の一書(第一)の同じ場面にイザナギの言葉として、

吾、御(あめのしたしら)すべき珍(うづ)の子(みこ)を生まむと欲(おも)ふ。
(私は、世界を統治する貴い子を生もうと思う。)

とあり、その訓注に「珍此云于圖」(「珍」を「うづ」という)とあるのによって、これを「うづ」と訓んでいます。

他に、延喜式の大殿祭祝詞に「皇我宇都御子」(すめらわがうづのみこ)、祈年祭祝詞に「宇豆能幣帛」(うづのみてぐら)、万葉集に「天皇朕 宇頭乃御手以」(すめらわが うづのみてもち)(六・九七二)などの用例があり、いずれも「貴い」という意味です。

御頸珠

御頸珠は、みくびたま、と読みます。首飾りの玉のことです。古くは、男女ともに、いくつもの玉を緒(を、ひものこと)に連ねたものを、首だけでなく、頭にも手にも足にも飾りました。

延喜式の伊勢太神宮神衣祭の荒祭宮の項に、幣帛(へいはく、神に捧げる品物)として「頸玉、手玉、足玉緒云々」が挙げられています。それぞれ、ネックレス、ブレスレット、アンクレットといったところです。埴輪に描かれたり、古墳時代の副葬品としてもしばしば出土します。

母由良邇

母由良邇は、もゆらに、と読みます。首飾りの玉どうしが揺れてぶつかり合って音を立てる様子をいいます。アマテラスとスサノオの誓約(うけひ)の段に、

ぬなとももゆらに、天の眞名井に振り滌きて、云々

とあります。「ぬなと」は「玉の音」という意味です。井戸の水に振りすすいだ時に、玉どうしがぶつかり合って音がした、ということです。

また、日本書紀の一書に、豊吾田津姫(とよあたつひめ、コノハナノサクヤビメの別名)を指して、

手玉も玲瓏(もゆら)に、織経(はたを)る少女(をとめ)(神代紀・第九段・一書第六)

と描写されます。機織りの作業で手を動かすときに手玉が触れ合って音を立てている様子です。

ここでは、「取りゆらかして」とあるので、御頸珠を手に取って揺らしたときに音がした、ということになります。「ゆらかす」は「ゆらく」(揺れる)の他動詞形です。

ちなみに、万葉集に「小鈴もゆらに」(十三・三二二三)とあり、鈴の音などにもこの表現は使われたようです。

汝命

汝命は、ながみこと、と読みます。他に、いましみことみましみこと、とも訓みます。続日本紀の宣命に、「美麻斯(みまし)親王」「美麻斯王」(巻九)、「奈賀(なが)御命」(巻十七)などの用例があります。

は、しらす、と読みます。しらしめすしろしめす、とも訓みます。「しる」の尊敬語で、「統治する」という意味です。何かを知ることはすなわち、それを支配することでもある、ということなのでしょう。

高天原、事依

高天原、事依は、既出です。

御倉板擧之神

御倉板擧之神は、みくらたなの神、 と読みます。「板擧」は「たな」と訓みます。いわゆる「棚」のことです。親神であるイザナギから賜った御頸珠を御倉に納め、その棚の上に安置して祭ったことによって付けられた名前です。「板擧」とあるのは、板を高く挙げて、そこに物を置くことからと考えられます。垂仁紀に「天湯河板擧」という人名が見え、その訓注に「板擧此云儺(たな)」とあります。

夜之食国

夜之食国は、よるのをすくに、と読みます。「食」(をす)は飲む・食うの尊敬語ですが、ここでは「統治する」という意味になります。「食国」という表現は、万葉集・宣命・祝詞で多く見られ、一種の常套句になっています。いずれも「天皇の治める国」という意味で使われています。宣長は、

さて物を見るも聞くも知るも食ふも、みな他物を身に受入るる意同じき故に、見すとも聞こすとも知らすとも食(を)すとも相通はして云こと多くして、君の御國を治め有(たも)ち坐すをも、知らすとも食(を)すとも、聞看(きこしめ)すとも申すなり、これ君の御國治め有(たもち)坐すは、物を見るが如く、聞くが如く、知るが如く、食すが如く、御身に受け入れ有つ意あればなり。(古事記伝)

と述べています。つまり、「見る」も「聞く」も「知る」も「食う」も、何かを身体に受け入れることを表すことを意味する、しかるに、天皇にとって国を統治することは、見る・聞く・知る・食べるという行為を通じて国を身体に受け入れるのと同じことであるから、これらの言葉が「国を治める」意味に使われるのだ、ということです。つまり、天皇にとっては、国は「見て、聞いて、知って、食べる」ものである、というわけです。

見る・聞く・知る・食べる、の中でも、宣命や祝詞や儀礼的な歌では「食国」という表現だけが使われます。これについては、岡田精司「古代王権の祭祀と神話」に詳細な分析があります。

簡単に言うと、土地の支配者にとって、神と一緒にその土地のものを食べることは、その土地の支配を保障されることであるという呪術的信仰が古くからあり、その信仰の上に立てば、国全体を支配する天皇にとっては、各地で産出されるものを神と共に食べることが国全体を支配していることの証しである、ということです。

つまり、「食国」という表現は、天皇にとって「食べる」ことはすなわち「支配する」ことに等しいと、宗教的・呪術的に考えられていたことに基づく、ということです。

具体的には、それは服属させた各地の豪族や首長から食物の供献の儀礼を受けることで表現され、その形式がやがて時代とともに整備されていき、新嘗祭・大嘗祭に移行していく、と説かれます。

見る・聞く・知る・食べる、いずれも身体に取り入れる、ということですが、支配者層にとっては、自分たちが食べ、領民たちも食べていけるようにすることが最大の課題だったでしょうから、土地の収穫が最大の関心事であり、これらの行為の中でも「食」がとりわけ重要な意味を持っていたことは理解できるところです。そしてそれゆえ、それは宗教や呪術的儀式の上でも重視されるようになり、やがて天皇が「食べる」=「統治する」というところまで象徴化されるようになった、ということのようです。

海原

海原は、
 古事記においては、アマテラスは高天原、ツクヨミは夜之食国、スサノオは海原を治める、という事依さしを受けますが、日本書紀の本文・一書にさまざまな異伝があります:

第一、第六、第十一は日本書紀の一書
神名 古事記 紀本文 第一 第六 第十一
アマテラス 高天原 天上 天地 高天原 高天之原
ツクヨミ 夜之食国 日に配(なら)ぶ 天地 滄海原 日に配ぶ
スサノオ 海原
根国
根国 根国 天下
根国
滄海之原
根国

どの伝承においても、事依さしを受ける・追放される・許可される、と違いはありますが、結局スサノオは根の国へ赴くことになります。また、アマテラスは天を治めることで一貫しています。一方、ツクヨミは紀本文・第一と第十一の一書において、アマテラスと共に天を治めることとされており、古事記の記述と合わせて、月と日の対照が意識されていることが分かります。しかし、記紀ともに、活躍が描かれるのはもっぱらアマテラスで、ツクヨミにはほとんど出番がありません。実際、物語は天のアマテラスと根国のスサノオの対立を軸として展開していきます。